徳川宗春をご存知ですか?(その2)

 吉宗の緊縮財政、倹約、諸事権現様の世にという政策は時代遅れで古臭く、だいいち息苦しくさえ感じます。江戸時代と言う時代は農業以外の産業が大変発展しました。相対的に、農業に基盤を置く幕藩体制は次第に貧しくなる構造を抱えていました。そこへ度が過ぎた緊縮財政をひいていたのです。我慢に我慢を重ねたとしても相対的に貧しくなる事になってしまいました。
 そこへ登場したのが宗春でした。紀州徳川家から将軍になった吉宗にとって家柄から言えば尾張のほうが上で、ただでさえ目の上のたんこぶ。それがこれみよがしに自分の信じる政策に家柄を盾に盾突いてくるのですから、鬱陶しくてたまりません。隠密を使ってでも追い落としにかかります。
 ついに尾張藩のお家騒動にかこつけて隠居蟄居を言い渡すのに成功しました。中央から手を回されてはどうにもならなかったのでしょう。宗春はこの処分を受け入れおとなしく隠居し尾張藩7代目の藩主の座から引きずり降ろされました。彼の施政方針をまとめた温知政要の始めには慈・忍の二文字を戒めにすべしと書いてありました。また任期中に一人の死罪も出さなかった仁君でもありました。
 武士の世も意識の変化次第では何れ終わるときが来るでしょう。時代に逆らった倹約や緊縮財政も二番煎じ三番煎じは通用しませんでした。寛政、天保の失敗を見れば明らかです。経済政策としてどちらが正しかったのかは意見の別れるところではありますが慈愛の政治を実現しようとしていたのは事実ではなかったでしょうか?志し半ばで挫折してしまいましたが、派手なパフォーマンスと庶民に寄添おうとしていた江戸時代のトリックスターでありました。
 最後に宗春にまつわるエピソードで締めくくりたいと思います。隠居蟄居を命じられてはいましたが、たまたま法事の際に外出が許されて寺からの帰り道でのことです。菩提寺から隠居元の屋敷までを名古屋の庶民たちが提灯で数キロの道ではありましたが照らして列を作っていました。隠居してから20年もたっても名古屋の庶民は宗春のことを忘れていませんでした。庶民から慕われていた何よりの証拠ではないでしょうか?その提灯は嘗て藩主だったときの、婦女子でも夜に外出出来るようにと名古屋の街を照らした提灯だったといいます。宗春と庶民との絆を象徴している提灯の様に思えてくるのです。
 どんなときでも胸を張って生き、やがて世の中を明るく照らし出す存在になれと語りかけているように思えてならないのです。

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