ふと思った。ある特性(障害)を持った人の再犯について。そして自分自身について。
ある犯罪についての本を読んだ。
母親を殺し、少年院で3年を過ごし、その後さらに無関係の2人の命を奪った人がいた。
彼は判決が確定して2、3年後に20代の若さで死刑となった。
その本の中で複数の専門家が同様に述べていたのは、
「(障害ゆえに反省のできない人に)反省を求めるよりも、
再犯をさせないための教育訓練プログラム」「退院(出所)後のフォロー」だった。「反省」よりも「再犯をさせない」ことの重要性を述べていた。
もっともなことだと思った。
しかし、考えてみれば一般受刑者の再犯率は約50%である。
一般受刑者の多くは「反省」しただろうと思う。
それでもその半数は再犯に至る。同一人物による第二、第三・・・の不幸な事件は防げていない。長い人生の中で死ぬまでに初犯で終わった人の割合は
かなり低いだろうと推察される。
「反省」がクソの役にも立っていないことは、一般受刑者も特性(障害)を持った人も同様なのである。
私はいったい何が言いたいのだろうか。
私も「反省」はした。それこそ心の底から反省をした。
にもかかわらず「過ち」は繰り返された。「事件」と言ってもいいだろう。
予測し難いこと、思いがけない事、あるいは何らかの心の苛立ちで「過ち」を繰り返した。もっとも大切だと思っている親族に対してだ。
先日、ようやく、「過ち」を遮断できた。心の底からほっとした。
何故なのかという自らへの問い、深い反省、過ちを遮断するための自分なりの方法も考えた。
あやうい橋を渡っていると思う。自分自身を何とかコントロールしようとしているが、そこに何らかの衝撃が加われば、「過ち」が繰り返されかねない。平和な日常、あまり豊かではないがそれなりに平凡で静かな生活が、
絶望へと転落しかねない、そういう危機をかかえている。
親族との、今の穏やかな平凡な日常を守るために、私自身が全身全霊で
「過ち」を遮断し続ける覚悟、忍耐力を絶えず持ち続けなければならない。
その道が険しいものであることを認識しながら、反省して生きていかなければならない。
そう思いつつも5年後、10年後はどうなっていくのか。
非常に厳しい道だと思うが、その道を歩き続けるしかない。
人が生きていくことは、難しいことが多すぎるが、
たたかいつづけるしかない。
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