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諏訪敦『眼窩裏の火事』展 あなたが見たものに触れたい

府中市美術館で2/26まで行われている
諏訪敦『眼窩裏の火事』展
ここ半年位で行った展示の中でベストだったので、思いの丈を記します。

緻密で再現性の高い画風で知られる諏訪敦は、しばしば写実絵画のトップランナーと目されてきました。しかしその作品を紐解いていくと彼は、「実在する対象を、目に映るとおりに写す」という膠着した写実のジャンル性から脱却し、認識の質を問い直す意欲的な取り組みをしていることが解ります。諏訪は、亡き人の肖像や過去の歴史的な出来事など、不在の対象を描いた経験値が高い画家です。丹念な調査の実践と過剰ともいえる取材量が特徴で、画家としては珍しい制作スタイルといえるでしょう。彼は眼では捉えきれない題材に肉薄し、新たな視覚像として提示しています。今回の展覧会では、終戦直後の満州で病死した祖母をテーマにしたプロジェクト《棄民》、コロナ禍のなかで取り組んだ静物画の探究、そして絵画制作を通した像主との関係の永続性を示す作品群を紹介します。それらの作品からは、「視ること、そして現すこと」を問い続け、絵画制作における認識の意味を拡張しようとする画家の姿が立ち上がってきます。

府中市立美術館 展覧会ホームページより(https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikakuten/2022_SUWA_Atsushi_exhibition.html#cms65A6B
)

これがアップされるのは最終日だし、もし誰かの目に止まることがあってもきっと展示に行くのは難しいのに書く意味があるのかなと思ったけれど見たことがないことが無い対象へも丹念な調査で肉薄した表現を行う諏訪さんの作品への尊大すぎるオマージュとして散乱したものだけれど書きたいと思います。

まず入って左右に静物画についてと棄民の部屋に分かれる。
棄民の部屋では九相図を思わせる、雪原に横臥する女性の作品がある。腸チフスで亡くなったという作家の祖母を思い描かれた作品なのであるが今際の際なのにどことなくうつくしい。額にかかる髪の様子やそんな状況でも少し整えられたような爪など本当の死にゆく人としては、ある意味描けなかったのではないかと感じた。
また、畳のような場所で同じように死ぬ間際の女性が描かれた作品もあるのだが、手の形が仏像の印を結んでいるかのよう。わたしには女性の傍に正座した人物が手を取っているように見えたのだが、彼女の死が一人ではなかったのだとなぜか安心した。
未完成となっている部屋の中に浮かぶ裸婦像からはなんとなくカバネルの「泡から生まれるヴィーナス」が思い出された。豊満というほどではないが、豊かさは美の一つなのだ。

静物画についてでは、閃輝暗点という画家の持つ症状を含めて描かれた文字通り静物画が並ぶ。
第1章棄民も第3章わたしたちはふたたびであうも素晴らしいのだが、作者の人への思いが流れ込んでくるようで、わたしには長時間みることができなかった。
第二章静物画について、である。

静物画はオランダ絵画によく扱われた画題の一つであるし、近代では高橋由一(画家も皮肉を込めた作品を切り取って制作している)がメジャーである。
写実画だから当たり前なのかもしれないが、そこにある豆腐も花びらも、アオリイカもすべて私が知っているその手触りをしているのだ。よく、食べられないものをたべてその味がする、と形容することがあるが視覚でもそんなことが起きるのかと心揺さぶられる。この方の一番の造形的特質なのだとおもうけれど、見た目をリアルに描くことに執着がみられず、ただそこにあるものがしっかり描かれている。
よくよくみるとガラスなんかはおそらく違う方向から繰り返しされていたりしてそのような発見もたのしい。

最終章のわたしたちはふたたびであう、では完成しなかった作品も含め肖像画が飾られる。
山本美香さんの作品はこの展覧会でなくてもどこかでご覧いただきたい。瞳に映る姿はどんな思いでみたのか、どんな気持ちだったのかわからない。この展覧会で恥ずかしながら初めて存じ上げたその人の一瞬の気持ちを考えずにいられないところにやはり芸術の素晴らしさが凝縮されている。

写実画、というジャンルの魅力が今までよくわからなかった。リアルを超えて、というのはよく副題などでみるが何が超えているのかずっとつかみきれなかった。
正直、スーパーリアリズムのようにして描くのって対象を切り刻んで顕微鏡でみるような気がしたのが、諏訪さんの作品には描くことでしか伝えずにはいられない感情に共鳴できた気がする


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