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1月の日記

年末から年始にかけてプンパーニッケルを食べていた。ドイツのライ麦のパン。すごく癖がある。今まで食べたものの中で一番まずい、と思っていたけどだんだんそれが癖になってきた。

今年の目標は「漫然と生きない」、具体的にいうとだらだらインターネットをしないです。

一月一日(日)
義理の実家に挨拶に行く。何度もお邪魔しているのにいまだにトイレの電気の場所がわからないし、今更聞けないままでいる。実家が半分ゴミ屋敷だったので義理の実家にお邪魔すると何て清潔で「真っ当」なんだ、と感動する。ご飯を美味しくいただいてテレビを見ながら談笑して帰った。

一月三日(火)
配偶者の友人夫妻と遊ぶ。ボードゲームカフェでボドゲをした。楽しかった。人と会って楽しいと思うとき、自分を社会的動物〜!と思う。 

一月十五日(日)
ITパスポート試験を受ける。多分受かった。次は基本情報技術者の勉強をしよう。
試験勉強が全く苦ではないの、自分の数少ない長所かもしれん。結果が合格とか点数とか目に見える形で帰ってくるのかなり好きだ。

一月二十一日(土)
四年ぶりの帰省。九州の地を踏む。お父さんのお墓参りをする。父は車の運転中に心臓発作で亡くなったので、事故の現場にも行って手を合わせた。誰も巻き込んだりしなかったのは不幸中の幸いだったとお母さんが繰り返した。
むかしは父母私兄祖父母の6人で暮らした家に今は母が一人で暮らしていることを思うとなんだか切なくなった。人生ってなんなんだろう。
暖房がある和室に母と私とそれからかなり距離を離して兄と布団を並べて眠った。子どもの頃に戻ったようで楽しかった。(兄と話した内容はもっぱらつみたてNISAやってる? イデコは? ふるさと納税どこにしてる? みたいな話だったけど)

一月二十二日(日)
父の3回忌の会食をした。存命の母方の祖母、体も心も健康そうで、こう歳をとりたいものだと会うたびに思う。楽しかった。祖母がたくさんアクセサリーをくれた。指輪などはサイズが合わないものもあったのでサイズ直しに持っていって使おうと思う。

一月二十三日(月)
昼ごろ、東京に向けて発つ兄に「行ってらっしゃい」と声をかける。持って帰ってきていたけれども全然読んでなかった「マルテの手記」を日のあたる縁側で読み進める。一時ごろ、家を出て駅のほうに向かう。駅前の本屋を冷やかして、スーパーをのぞいて、バスに乗り込んで博多に向かった。職場と友達と自宅用にお土産を買う。お土産屋さんを見るの好きだな。いろんな美味しそうなものが売られているのを見るだけで心が明るくなる。たくさん散財した。飛行機に乗る前に空港で豚骨ラーメンを食べながらビールを飲んで最高だった。飛行機に乗るたびここで死ぬかもなと思うけど、今回も無事帰ってきた。

一月二十七日(金)
ガストでコーンピザを食べていたら配偶者が「先週(私の実家帰省中)一人で同じやつ食べた時よりもガチで美味しい」と言っていて笑ってしまった。人と食べるご飯て美味しいよね。

一月二十九日(日)
友達とシーシャカフェに行った。いやあシーシャ……いいですね……。かなり「新体験」という感じで、本当に行ってよかった。タバコを吸ったことがないので自分の口からもわもわ煙が出ることがまず面白く、しかもその煙が美味しい! おまかせで出てきたパッションフルーツとライムのフレーバー(確か)、甘くて爽やかで美味しかった。ひと吸いするごとに美味しい! と言っていた。煙を吐くときに口の中がなんか美味いのなんかのバグみたいでうける。飲み物はチャイとホットワインを頼んだけどこれも美味しかった。
ノートパソコンを持ち込んで作業している人、タブレットで絵を描いている人、会話している人、みんなシーシャを吸いながらチルしていて面白い空間だった。いや〜ハマる人の気持ち分かるな〜。味変で頼んだレモンティー風のフレイバー、最初のと全然違いがわからなくてそれもまた面白かった。次行ったら全然違う味にも挑戦してみたいな。
あと行ったお店が最近はまっている漫画『ガチ恋粘着獣』の一場面のモデルになっていて、そう言った意味でも楽しめてよかった❤️ シーシャのシーンの解像度が上がった。
シーシャカフェがあった新橋から銀座まで歩いた。東京の街は歩いていると街の雰囲気がガラリと変わることがあり、それが面白いな〜と思う。駅ごとに街の特色がある。銀座の商業施設の中でスペイン料理を食べ、お酒を飲んだ。友人に向かってガチ恋粘着獣の結末が気になるという話を繰り返し、推しが救われてほしいと祈る。推しに救いのあるラストならFENDIのアクセサリー買います。

一月に読んだ本
『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』品田遊 著

言語化がうめ〜〜。オモコロ含め筆者の作り出すコンテンツを楽しませてもらっているし、すごい人だな〜と思うのと同じくらい嫉妬がある。同世代だし。これだけ自分の考えを考察したり文章にしたりすることに秀でていたらそりゃ何かを創作する側に回るよな……。特に心に残ったのは「誹謗中傷」という題の一節。以下抜粋。

 これは「的はずれな批判なんて相手にするな」と言う人があまり言及しないことだが、ネット上の誹謗中傷のたぐいはだいたい根拠がある。指摘されている内容そのものについては、「なるほど、たしかにそうだな」と思えるようなものであることが多い。だからこそ心がダメージを受けるのである。「外野の意見は的はずれ」という考え方は、それ自体が的はずれだろう。
 いきなり知らない人がズボンのポケットに手を突っ込んできて「ハンカチくらい持ち歩けよ」などと言ってくるようなものだ。たしかに私はハンカチを持ってなかったですけども、あなたに手を突っ込まれる筋合いはないじゃないですか。そういう言葉も空回りする。
 人は誰でも自分自身の生き方に迷い、何かをごまかしている自分に気づきながらも、生きるためあえて目を背けている。そこに現れる「ポケットに手を突っ込んでくる他者」は「欠陥に、欺瞞に向き合え」と強要してくる。
「大きなお世話」とは、他人の優先順位をコントロールしようという暴力のことだ。人は、とにかく今を健康に生きるために、いずれ解決すべき問題を棚上げすることがある。行動の順位付けは生存においてとても重要な判断であり、その人の特有なかたちそのものである。「正しいか、正しくないか」というだけではあまりに事態を単純化しすぎている。
 だから私は「外野の意見は的外れ」と切り捨てるより「それはそうかもしれない。だが、それを変えるのは今ではないし、あなたが決めることではない」と自信をもって言える領域を確保することが重要だと思っている。そのリズムだけは自分に固有のものだからだ。(P182)

引用終わり。言語化エグ。

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