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第13週 水曜日 教育者 学者 小川 宮子


第13人目の教育者は明治期の教育者 小川宮子さんです。

小川 宮子 (おがわ・みやこ)さんは文政7(1824)年江戸の旗本の家に生まれます。幼少期から和漢書や礼法などを学ばれ、また茶道、華道、箏曲を意欲的に学ばれ剣術も学ばれたそうです。

幕臣だつた小川希道氏と結婚されます。御殿医であった夫希道氏は維新後間もなく死去されます、また長男は別居しており、家庭的には恵まれなかったそうです。

48歳の明治5年山形県酒田市宮野浦から招へいされ、私塾を開いて村民から敬慕されました。

宮野浦に来ることになったいきさつは、そこに住む藤治郎が真から小川宮子さんの学識人格に感動し、女史に同道を懇請して教えをうけることを乞うたのだそうです。

同7年8月宮野浦学校教師を経て、翌8年11月酒田で最初の女学校であった操松学校教師に迎えられ女子教育に尽くされます。

酒田では、本町一丁目二番地にあった深田治三郎氏宅に奇寓し、希望者には夜学を開いたそうです。


宮子さんは、男紋付を着用し、自分で模様を画き入れた半襟をつけ、縞の高袴、切髪といった容姿をし、まったくの男装であったそうです。

また学識については、漢籍に通じたばかりでなく、能筆家で書画のたしなみあり、女生徒の半襟模様を画いてくれたといい、生花、点茶、弾琴から裁縫、料理に至るまで家政の細大、所作礼法に厳しかったし、そのうえ、毎夜のように庭に出ては1人で剣術を研究していたと伝えられています。


明治9年6月7日、大久保利通内務卿が鶴岡を視察、また同年9月20日、三條実美太政大臣が鶴岡朝暘学校開校式に参列のおり宮子 さんが女生徒を引率して赴き、授業を参観していただき、好評を得たと伝えられているそうです。

明治12年5月琢成学校が開校、11月酒田中学校が併設されたので、操松学校は廃校になりました。

宮子さんは、同月10日山形師範学校教授に栄転発令され、ほどなくして酒田を離れられた。

女史が山形に迎えられたのは、三島通庸県令の女子教育について女史に期待するところが大きかったからと言われています。三島県令は満腔の信頼をもって、娘3人を託され、酒田のときのように仕込み遠慮なく言葉、行儀などを直してくれと頼まれたと伝えられています。

宮子さんは三島県令が栃木県令に転任と同時に、同県に転出してそこでも私塾を開かれ、男児の漢文、剣道を学ぶものも増えて一時は100余名をみる盛況であったそうです。

同33年8月10日、77歳の生涯を閉じられました。


めぐめぐがすごいと思う小川宮子さんのこと

1幼少期から女の人が学ぶだけでなく、剣術も学ばれ、真の文武両道であられたこと。

2東京を離れられ、知らない山県の土地で多くの子どもたち特に女子教育に力を入れられたこと。

3信頼を受けた三島県令が栃木県令に転任と同時に、同県に転出してそこでも私塾を開かれ、亡くなるまで多くの子どもたちを教えられたこと。



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