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第32週 歴史上の人物 常盤御前


はじめに

今週の歴史上の人物は 平安時代末期の女性で源義朝の側室だった常盤御前です。

お生まれ


常盤御前(ときわごぜん)は、保延4年(1138年)に生まれたと言われています。


『平治物語』等の軍記物語や『尊卑分脈』によれば、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされています。

両親については素性が不明だとかかれています(『平治物語』)。


常盤御前の生涯

常盤御前は成人後源義朝の側室になられ、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)をお産みになります。

後に一条長成との間に一条能成(長寛2年(1163年)生)や女子(生誕時期不明)を産んだことが知られています。

源義朝の死から一条長成に嫁ぐまでの消息は『平治物語』『義経記』等に記されているが、事実がどのようなものであったかは不明だそうです。

軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていないそうです。

やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。

都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとあるそうです(『玉葉』)。

『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものと考えられています。

常盤についてのに関する記録はこれが最後で、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にあるそうです。

さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因むと伝えられています。

また、かつて東京・渋谷にあった松の老木、「常磐松」には、常盤が植えたことに由来するとの説があるそうです。


物語に書かれている常盤御前


以下は主に『平治物語』『義経記』による物語上の常盤の話を引用します。

どこまでが事実であるか不明ですが、この物語がその後の文学や芸術に大きな影響を与えたことは事実だと言われます。

常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で聡明で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。

なお、室町以降に成立したとみられる『義経記』ならびに室町以降に成立した流本系『平治物語』においては常盤午前に清盛がよしなき心を抱き、常盤御前に文を送って子供の命を盾に返答を強要したという内容が記されているそうです(流布本『平治物語』では清盛から子供の命を絶つと言われても常盤御前は返事せず、母親に説得されて初めて常盤御前が返答したとあるそうです)。

しかし鎌倉時代に成立した『平治物語』においては、常盤御前が清盛から局を与えられ後に女子を一人産んだとの記載があるが、それには常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されていません。

古態本『平治物語』において清盛と常盤が男女関係となったのは子供達の助命決定後の事となっているそうです。

なお、『平治物語』諸本においての常盤の言動は、常盤と子供達が姿を消した為に囚われの身になった母親の助命のみに終始しており、子供達の助命を清盛に対して一切申し入れていないそうです。

子供達が殺されるのを見るのは辛いから先に自分を殺して欲しいという言動がのみが記されているそうです。また『平治物語』においては子供達の助命の理由が清水寺の観音のご加護であるという点が強調されている。

『義経記』においては清盛の意に従ったがゆえに子供たちがそれなりに身が立つようになったと記されている。

なお、常盤逃亡談は『平治物語』にくわしいが、この物語はもともと清水寺の観音信仰から生まれたものでもともとは『平治物語』とは別個の物語として存在していたものがやがて『平治物語』に組み込まれていったという見解が強いと言われています。

一方、義経が頼朝に追われた際に常盤母娘が捕らえられたのも一条河崎観音堂であったことから、常盤御前が深い観音信仰の持ち主であり、清水寺とのつながりも否定できないとする見解もあるそうです。

この常盤御前の逃避行の話はその後室町期の幸若舞の『伏見常盤』『常盤問答』『笛の巻』などによって発展していくことになり、その発展していった常盤の物語はよりいっそう「強い母」という面が強調されていくことになるそうです。

平清盛と常盤御前


『尊卑分脈』の系図には、清盛の八女に常盤の娘として「廊御方」が記されているが、軍記物を読んだ『尊卑分脈』編者が廊御方という存在を作り出したとの説もある。従って常盤御前と平清盛の間に子が生まれていたこと、さらには男女関係があったということに対しても疑問が提示されているそうです(廊御方参照)。

常盤が清盛と男女関係になることによって子供達の助命がかなったということが、一般的に知られている話である。

上記の通り室町以降に成立した物語では常盤御前が子供たちの命がかかわっているために清盛と男女関係になったということが記されていますが、鎌倉時代に成立したとみられる古態本『平治物語』においては子供達の助命と常盤が清盛の子を産んだ話の間には一切の関連性がないことが分かるそうです。。

また、平治の乱において戦闘にまで参加している義朝の嫡男・頼朝の助命が決定していたということ、最近の研究の結果、平治の乱に対する評価が変化して、真の首謀者は藤原信頼で義朝は信頼に巻き込まれたに過ぎず、この乱が源氏と平家の戦いという側面ではとらえられなくなっていること(平治の乱を参照)、清盛に対して義朝の勢力は都における軍事動員力や官位経済力という面においてはるかに遅れをとっていたという事実などから、常盤と清盛に男女関係があろうがなかろうが、常盤の三人の子供の助命に大きく影響したとは考えがたいという見解が強いと言われています。


めぐめぐがすごいと思う常盤御前のこと


1あまり成人になるまでどのような人物か知られていないのに、当時の成人の中心人物を支える妻となり、多くの歴史を動かす人物を産んだこと。

2そしてその伝説は現在まで様々な地域で伝えられていること

3日本の強い女性のシンボルとして長い間多くの日本人の心に感銘を与え続けてきたこと


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