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第14週 日曜日 世界で活躍する女性 森下 洋子

14人目の世界で活躍される女性はバレリーナの森下洋子さんです。

森下 洋子(もりした ようこ)さんは1948年12月7日 広島県広島市江波(現中区江波)でお生まれになります。2人姉妹で、6歳下の妹がいらっしゃいます。

幼少期を過ごした江波は爆心地から離れており建物被害は少なかったこと、そして復興が進んでいたことがあり、森下の記憶には焼け跡の情景は残っていないそうです。

バレエとの出会いは3歳の頃、体が弱く医師から運動を勧められていたところ、ちょうど家の前の幼稚園でバレエ教室が開かれていて、通いだしたのがきっかけだそうです。

そこは広島のバレエの草分け的な存在であった葉室潔氏の教室でした。

森下さんはバレエとの出会いは運命的なものであり、この教室がなかったとしてもどこかでバレエに出会っていたはずと語っておられるそうです。

不器用で初めは教室での練習になかなかついていけなかったが、家で稽古を何度もこなし両親に励まされ出来るようになると、人よりも多く稽古をしバレエにのめり込んでいったそうです。

バレエを一生続けたいという思いはこの幼少期の頃に出来上がっていった。のち葉室氏から勧められ洲和みち子さんに師事、ここで森下は技術的な面だけではなくメンタル面も鍛えられたそうです。

広島市立江波小学校へ入学され、小学1年生の時、広島市公会堂で行われた橘秋子の橘バレヱ学校の生徒の公演を見て憧れ学びたいと、両親を説得しその冬休みに上京、数日間のみレッスンを受ける予定が、結局小学1年生三学期の3ヶ月間東京に一人残り橘さんのバレエ教室にへ通われます。

小学2年生以降は基本は広島で、夏休みや冬休みの期間中のみ一人で上京し、通われたそうです。そこで森下さんは天性の資質と豊かな表現力、人一倍の努力でめきめきと頭角をあらわされます。

この時期、森下さんの東京への旅費を稼ぐためにお母さんは洋食屋を始められました。それが“きっちんもりした”でした。

この袋町のレストランは繁盛し、小学3年生から家族で袋町へ移り森下さん

は広島市立袋町小学校へ編入されます。なおこの店は有名店となりその後数十年も続いたそうです。


1960年小学6年生の時に、森下さんはバレエを一生の仕事にしたいと親にせがんで本格的に上京、橘に師事し住み込みのバレエ漬け生活を始められます。東京では、武蔵野市立第一小学校へ転校しのち武蔵野市立第一中学校、吉祥女子高等学校を卒業、この間学業とバレエを両立されます。


1961年頃から大原永子さんとともに『りぼん』『少女倶楽部』『少女フレンド』『マーガレット』など、少女雑誌のグラビアページを毎号飾り“天才バレリーナ”として日本中の少女たちの憧れの的となられました。


1969年、アメリカに留学されます。その後当地で契約オファーの話もあったがすべて断り、日本へ帰国されます。


1970年、松山バレエ団“白毛女”を見て感動し、松山樹子さんに師事を願い出るも断られます。

橘秋子さんの死去後、1971年もう一度松山さんに願い出ると認められ、ここから森下は松山バレエ団に所属することになります。

この移籍に周囲は騒いだそうですが、松山とその夫である清水正夫氏に守られバレエに専念することができたそうです。

松山バレエ団に移籍後、訪中し白毛女を踊っておられるそうです。

1971年、芸術選奨新人賞を受賞されます。


1974年、第12回ヴァルナ国際バレエコンクールに出場されます。

松山に勧められたことにより出場したもので、森下にとって初めてのコンクール出場だったが、噂を聞きつけた周囲からは出場前から優勝を期待されたそうです。

100人以上参加したこの大会に、松山さんと清水正夫の長男である清水哲太郎氏と挑まれました。

1次予選の“ドン・キホーテ”の時点で観客は大いに湧き、審査員を務めた一人がこの時点で会いに来て「洋子ちゃん、哲ちゃん、おめでとう」と言われたそうです。


2次予選では演じる前に名前が呼ばれた時点で観客が沸き、決勝では“黒鳥”を踊りその反応から優勝を確信されたそうです。

結果、森下さんは金賞、清水氏は銅賞を受賞されました。

これは日本人初の金賞であり、「日本人にはバレエは無理」という世界的な偏見を払拭し見直されるきっかけになったと森下は述べておられます。

この後森下さんは、世界のプリマを目指されます。

まず文化庁在外研究員として清水哲太郎氏とともにモナコ公国へ留学しマリカ・ベゾブラゾヴァ(イタリア語版)に1年間師事されます。

2人とも留学が終わった1976年、清水哲太郎氏と結婚されます。結婚式後新婚旅行はせずすぐに2人とも舞台に上がっており、森下は清水哲太郎との関係を夫婦というより同志と述べておられます。

この年、アメリカン・バレエ・シアターに招かれ、プリマとして世界デビューを果たされます。

のちの2014年にはヴァルナ国際50週年記念として特別ゲストに招かれ40年ぶりにその舞台に立ち、清水哲太郎が振り付けした“鳥の歌”を踊られました。


1975年および1977年文化庁芸術祭大賞。松山バレエ団を拠点に清水哲太郎と共に活動する一方で、海外でも活躍されます。


1977年エリザベス戴冠25周年記念公演で踊られます。

これがロンドンデビューとなりました。

また1978年には“バレエの女王様”マーゴさんとともに世界ツアーを行っておられます。

1981年パリ国立オペラに日本人として初めて出演され、同年毎日芸術賞受賞。これらの多くは最年少での受賞となりました。


1985年第1回服部智恵子賞受賞、日本芸術院賞を洋舞として初受賞されます。

同年、パリ・オペラ座の『くるみ割り人形』全幕に主演、またヌレエフ氏と共演した『ジゼル』の演技に対して、舞台芸術に携わる者にとって世界的に最も栄誉ある賞の一つ・英国ローレンス・オリヴィエ賞を日本人で初受賞されます。

1997年女性最年少の文化功労者として表彰されまし。

2001年より松山バレエ団団長を務められます。

2002年より日本芸術院会員でいらっしゃいます。

2011年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞されます。


2015年 10月に『眠れる森の美女』の全幕公演以来、現在も刑部星矢氏と共に踊り続けておられます。

バレエ歴は60年を超え、還暦を過ぎてもバレリーナとして活動し続けておられ、このように。長くステージを務めているダンサーとして知られているのは、森下さんの他にはマイヤ・プリセツカヤさんがあげられるそうです。


以下の著書や写真集を買うことが出来ます。







こんな本も監修されています。



めぐめぐがすごいと思う森下洋子さんのこと

1やはりバレエに対するものすごい情熱を持たれて、当時何度も東京まで行かれて最高のバレエを学ばれたこと。

2その後自分の本当にしたいバレエをずっと追及されたこと

3そして最高の場所で最高の演技をしてその後素晴らしいキャリアを積まれて世界で活躍されていること。

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