第20週 月曜日 歴史上の人物 飯島愛

第20週目の歴史上の人物は今年13回忌を迎えられたタレントの飯島愛さんです。



飯島 愛(いいじま あい)さんは、1972年10月31日東京都江東区の亀戸で大久保 松恵(おおくぼ まつえ)さんとしてお生まれになりました。私立亀戸幼稚園、江東区立水神小学校を卒業されています。

著書の『プラトニック・セックス』の記述によると飯島愛さんは

教育熱心で躾に厳しい両親に育てられ、小学校の頃は成績が良くおとなしい子であったそうです。

中学に入学してからも成績は学年で常に10番以内を保っていたが、中学1年の頃に精神的な支えでもあった祖父が亡くなったことで精神のバランスを保てなくなり、それが原因で両親からのプレッシャーに耐え切れなくなって非行に走るようになられました。

中学在学中から不良仲間と毎晩ディスコ等で夜遊びに耽るようになり、遊ぶお金の為に万引きやカツアゲを繰り返す生活をしていたそうです。瀧野川女子学園高等学校には入学したものの全く通学しておらず、すぐに中退することになります。

中学卒業前後には既に家出同然の状態であったそうです、家出後の彼氏との短い同棲生活等を経て、六本木でホステスとして働いていたところをスカウトされ、1992年にAV女優となられます。


芸名は水商売時代に所属していた店のママが「みんなから愛される子になるように」という願いを込めて「愛」という源氏名を付けてくれたことによるそうです。

AVデビュー後、『とんねるずのみなさんのおかげです』のスタッフととんねるずの木梨憲武氏が彼女のファンであったことから、同番組にハプニングゲストとして出演したことがテレビ番組初出演となりまhした。

1992年2月から深夜番組『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系)にレギュラー出演し、スカートをめくりTバックを見せるのが話題となって愛さんは「Tバックの女王」と呼ばれた。

この頃は、当初新人という事もあり、若さを前面に押し出したアイドル的(いわゆるぶりっ子的)な仕草や口調のキャラクターとして振る舞っていたそうですが、その中で徐々に等身大の本音の部分を垣間見せるような芸風を確立していかれました。




1993年、「ナイショ DE アイ!アイ!」で歌手デビューされます。オリコン87位。このCDには飯島が実際に着用したパンティを細かく裁断した生地が同梱されたそうです。

1994年頃、AV女優を引退。テレビ番組への出演等によってタレントとしての知名度を得たことで、引退後は完全にタレント業へと転身を果たされました。

AV女優を引退してタレントに転身した後はアイドル的な振る舞いをする事はなくなりましたが、ギャル的な口調で等身大の本音を語る芸風はその後も継続されたそうです。

タレント転身以降のテレビ番組への出演の際は、露出の多い服装でボディラインや脚線美を魅せる「お色気担当」として活躍すると同時に、クイズ番組等では珍解答を連発する、いわゆる「おバカタレント」としても活躍されていました。

反面、芸能、政治、スポーツなどの各分野で本音や自身の主張を展開しておられました。決して無知無学ではなく、相応の勉強をして教養を身に着けていたそうです

1999年東京都知事選挙では、雨宮処凛らとともに柿澤弘治を支援したことが知られています。

2000年、半自伝的な小説『プラトニック・セックス』でリンチ被害、AV出演や性病感染、中絶手術、整形手術していたこと等をカミングアウトしベストセラーになりました。

著席は映画化やテレビドラマ化もされ、以来作家活動も行っていおられました。

「週刊朝日」にコラム『飯島愛の錦糸町風印税生活』を執筆されています。

また性感染症予防の啓蒙活動を行っていたことでも飯島愛さんは知られています。

 2000年の流行語大賞においてトップテン入選した「ワタシ(私)的には…」で、「この言葉の使い手として一番ふさわしい有名人」として授賞式に出席されています。

2005年にブログを始められます。

同年、ネット配信番組に連動した株取引に関するブログも、短期間公開されたそうです。

2006年11月11日、個人事務所の経理担当の人間から数千万円もの横領被害に遭ったことをブログで告白しておられます。


2007年3月3日、「飯島愛が3月末で芸能界を引退する」という報道が流れ、飯島の所属事務所もこの内容をFAX回答で認めました。

飯島さんは同4日に生出演した『サンデージャポン』でこの件について「いつかは引退する」と発言するも時期については明言しなかったそうです。

しかし翌週(3月11日)の放送で飯島は3月末をもって引退することを自ら発表されました。

その後腎臓病(腎盂炎)であることも報道され、それによると「症状が予想以上に重く、仕事を続ける意欲を完全に失っているという。」と理由付けされていたそうです。

『サンデージャポン』最後の出演は2007年3月25日だったそうですがが、ちょうど番組放送直前の午前9時42分頃に能登半島地震が発生。

TBSは地震の状況を報道したため、飯島愛さん最後の『サンデージャポン』の放送時間はわずか15分となってしまい、飯島愛さん本人が出演した場面は3分(予告編のみ)しかなかったそうです。

飯島愛さんははこのことをブログで「大変な事態です。人命と私の引退は比べるに値しない。今はそっと、被害が最小限に収まるように見守りましょう」と綴っておられるそうです。

なお、翌日のニッポン放送の生放送ラジオ番組『テリー伊藤のってけラジオ』において、飯島愛さんと『サンデージャポン』で共演しているテリー伊藤が「飯島愛ちゃんの分は収録しました」と話し、翌週の『サンデージャポン』で放送すると明言した。

その後、テリー伊藤氏の言うとおり、4月1日の『サンデージャポン』のラスト10分で、事前に収録された「飯島愛 引退ファイナルカウントダウン」と題されたVTRが放送され、飯島は週刊誌で報じられている「藤田晋とITビジネスを行うという説」や「ニューヨークへ移住するという説」を否定し、「(今後は)医療関係の仕事に就きたいが、今から勉強しても間に合わない。でも、(医療と性質の似ている)カウンセリング関係の仕事をしたい」「歌や(お笑いの)ライブなど、板の上(舞台)に立つ仕事ができないと、芸能人としては限界がある。あと、病気で休んでいる時に、私の代わりになる若手はいっぱいいると思った」と語り、「精子バンクでシングルマザー説」については「試みようとしたことはある」と述べられたそうです。

そしてVTRの最後では、高橋ジョージが飯島のために「ロード」を熱唱し、飯島はみんなへの感謝のメッセージを贈った。

2007年3月31日、「目標や夢が見い出せず、芸能界で生き残っていくことは不可能」として所属事務所から正式に引退が発表されたそうです。

飯島愛さんは引退後も「飯島愛」としてブログ『飯島愛のポルノ・ホスピタル』を続けられ、飯島の没後も連日ファンのコメントが書き込まれ続けており、故人を偲ぶ宝物のような存在になっていましたが2015年10月31日でブログは閉鎖されました。

2008年(平成20年)12月5日、最後のブログを更新されます。

2008年12月24日、東京都渋谷区桜丘町の渋谷インフォスタワーの自室で亡くなっているのが親戚の女性によって発見されました。

その後、警察などの捜査によって、発見時現在で死後1週間ほど経過していたことが判明したそうです。

死亡推定日は発見日である12月24日から起算して12月17日前後であると考えられている。

36歳没。2009年(平成21年)2月4日、東京都監察医務院による病理検査の結果が警視庁渋谷警察署より発表され、死因は肺炎であったことが判明したそうです。

真冬ではあったが、室内の暖房が点けられたままであったため、遺体は腐乱していたという。

2009年2月6日、『中居正広の金曜日のスマたちへ』300回記念スペシャルにて追悼特集を放送。中居やベッキー、大竹しのぶら出演者が「お別れ会」という形で最後のメッセージを贈り、涙ながらに飯島の死を追悼した。

飯島愛の本葬(お別れの会)が、2009年3月1日、東京プリンスホテルにて執り行われ、親交のあった芸能人をはじめ約1500人が参列しました。

弔辞は島田紳助氏と盟友の中山秀征氏がそれぞれ読まれ、この時の模様は、かつて中山氏が飯島愛さんと共に司会を務めた『ウチくる!?』内で生放送されました。


13年で今年は多くのニュースを読むことが出来ます。




めぐめぐがすごいと思う飯島愛さんのこと

1芸能界に入る前のキャリアと戦い、またその中で自分らしさを発揮されてその位置を築かれたこと。

2非常な努力家で様々な才能を発揮されていたこと

3そして厳しい芸能界で潔く自分らしさを追求してやめるという決断を当時されたこと。

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