普通ってなに?〜車椅子に乗っている私に、あなたのことを教えてください〜
2020年3月中旬、私は会社を1週間休んだ。
診断名は腎疾患となっていたものの、それ単体ではないことは私にもわかっていた。
だいぶ前から、会社に通勤することが苦痛になっていたし、3月の年度末の忙しさと負の感情が相まって疲れてしまったのだ。
別に、業務内容が嫌なわけではなかった。高卒で障害者雇用として働き始め、今の部署はもう6年目。
自分の担当している業務の面白さは見えていたし、他の部署の業務も担当してみたいという気持ちもあった。
なのになぜ、行きたくなくなって会社を休むまでになってしまったのか、と聞かれれば、会社の方針と考えに納得できていなかった、というのが大きいだろう。
子育てを理由に、あまりこちらの相談や提案を真面目に聞かなかった上司。
今在籍している私への配慮も決して十分とは言いがたく、話し合いを続けている最中なのに、障害者雇用率が足りず行政から指導が入ったから、とまるで人数さえ満たせばいいかのように進む障害者採用。
新しく入った後輩への待遇も適当。
私がこれまで車椅子で生活をしながら、障害者雇用第1号としてここで働き、自分の身体障害や発達特性にたいして支援機関の手も借りながら配慮を訴えてきたのは、果たして何のためだったのだろう?
話しても話しても伝わっている感覚がないけれど、これからどうしていったらいいの?
私は「障害者雇用率」という数字としてこれからもここで働くのか?
そもそも、必要な合理的配慮を受けるためにこんなに頑張らないといけないなんて、ちょっとこの会社おかしいのでは?
私がお願いしていたのは主に2つ。
ひとつは、四肢と体幹に障害があるため姿勢維持が難しく、車椅子に乗った状態であっても、普通の人より体力を消耗してしまい疲れやすく身体の痛みが生じやすいこと。だから休暇を取ってのリハビリやこまめな休憩が必要で、この先長く働いていくためには身体のメンテナンスが必要不可欠であること。
今も有給とは別に、通院や体調管理に使える休暇を無給で付与してもらっているが、月で疲れが出ないよう計画的に休暇を申請していたら「疲れて体調が悪くなってから取ればいいのではないか」と提案されたことがあった。そういわれてしまうと必要な休暇であっても取りにくさを感じてしまう。
ふたつ目は発達障害があり、マルチタスクが苦手であること。ひとつひとつの仕事の手順は理解しているため、優先順位付けや進捗管理などを一緒にして欲しいこと。
他の人も同じだから、と励まされたり、管理のためのシートを一緒に作って共有していても、戻ってくる返事は「確認しました。」のみで具体的な指示がなく、結局一人で優先順位を考えなければいけなくなってしまったりした。
これらのことを理解してもらって働こうと思うのは、私のわがままなのだろうか?
いや、合理的配慮は障害のある人の社会的に困難な状況を、過度に負担のかからない範囲で取り除くことなはずだ。そしてそれは障害者雇用として雇い入れた会社の義務だ。
でも、私は本当に間違っていないだろうか。そこに甘えてはいないだろうか?
なんてことを考えているうち、どんどん会社に行きにくくなり、膀胱炎で主治医のところに行ったとき、ついでのような気持ちで、「会社に上手く行けないんです」と相談したところ、1週間の休養という選択を勧められた。
「自分は自分でいいと、考え方を変えられるように、向き合う時間にしてね」と優しい声で、主治医は言ってくれた。ただ、それは私にとって、とても難しいことだった。
1週間の休養の後、勤務日数を減らしてもらって復帰しても、状況はなにも変わらなかった。
4月に入って上司は異動になって、新しい上司には相談しやすくもなった。少し希望は見えている。
けれど、コロナ禍もあってあまり具体的な動きは取れないため、環境整備が目に見えて進んだわけではない。まだまだ手探りで、状況を変えていかなければ、という気持ちだけが先行している。
上司が変わった今というきっかけを逃せば、また配慮を得ることが難しくなってしまう。
コロナ禍もあってテレワークも導入されたし、今なら少しだけ働きやすい環境になるかもしれない。
こんなことを考えながら過ごしているうちに気付いたのは、実は無理をして社会に溶け込まされていたのは私だけじゃなかったのかもしれない、ということだった。
4月初旬、緊急事態宣言とともに、日本の企業はテレワークに舵を切った。
それまで出社が当たり前だった多くの人が、在宅で仕事をするようになった。
もちろん、それで大変な思いをした人も多いだろうし、テレワークにならない人や出来ない職種もあっただろうけれど、私の周りではテレワークをすることで楽になった、という人がたくさんいた。
私自身、出社しているときよりも睡眠がたくさんとれることで体調が良くなったり、仕事中少し疲れた時に気軽に車椅子から降りて休息が取れるようになったりといいことがたくさんあった。
たまに出社するときも、10時に出勤すればほとんど電車に人はいない。人込みや喧騒が少し苦手な私にとってはありがたかった。
だから、ずっとこのままか週3くらいの出社でいいかな、とのんきに考えていたら、5月下旬の緊急事態宣言の解除とともに、急速に世の中が元に戻ろうとしているのを感じた。
朝出社しようとすればたくさんの人。2か月間テレワークや10時出勤でほとんど定時出社をしてこなかった私にとって、不安になるほどの人出だった。
幸い、私の会社では今後に備えてテレワークを継続しよう、という方針にはなっているが、宣言中とは制度が微妙に変わり、10時出勤はしにくくなったし、かといって全く出社しないわけにいかず、出社するときは満員とはいわなくとも人が多い7時台の電車に乗り、夕方にも電車に乗らなくてはならない。
今まで仕方のないことだ、と思っていたけれど、そもそも、毎日ラッシュ時間帯に通勤して、週5日40時間働いていること自体が負担だったのだ、と改めて実感した。
私のように毎日の通勤や勤務が負担になる人は意外とたくさんいるのではないか。
子育て中の人。私のような障害で体に負担がかかりやすく疲れやすい人。
病気で休養し、これから復帰する人。病気と一緒に生きていく人。
特別な事情がなくたって疲れやすい人だってきっといる。
私たちのような社会で生きていくことが少し困難な人たちが社会に溶け込むとき、そこには、「自分のキャパシティを多少超えていても頑張って普通を装う」か「普通であることを諦め、普通の人たちとは少し違う手段を検討する」の大きな2択があると思う。
もちろんどちらの選択肢も否定するつもりはないし、できれば自分らしくいられる方を選びたいけれど、なぜか前者を勧める人や、自分にも他人にも前者でいることを求める人が多い気がする。
かくいう私も、会社に復帰してしばらくするまでは、「社会にいる以上、ある程度無理をするのは仕方がないこと」だと思っていた。
分かってもらおうと色々事情を説明しても、「前例がない」とか「それは他の普通の人だって同じだから」とか、「苦手なことでも工夫して」とか、「わかった、今すぐには難しいから検討する(結果何もしてくれない)」などの言葉を返され、希望を失ったような気持ちになり、その度に諦めたくなることは数多くあったからだ。
他の人たちにだって事情がある、というのは重々承知している。その人たちだって別に悪意でそう返したわけじゃないのも分かっている。
それでも、私はもうちょっと声に耳と心を傾けて聞いて欲しい、と感じている。
例えば、私が助けて欲しくて声を上げるとき、私は楽をしたいわけではないのだ。
困っていて、どうしたら良いか分からなくなって、やっとの思いで声を出しているのだ。声を上げる側にはいつだって、ギリギリの状況があるのだ。
「普通」の人たちだって大変だというのはわかっているけれど、そもそも誰かが思っている「普通」が他の誰かの「普通」だとは限らない。
私だって、身体障害と発達障害のある自分の感覚が「普通」だと思っていたけれど、そうではないことがたくさんあった。私は知らなかったけれど、私のような障害を持っていない人はこんなに身体に無駄な力は入らないし、自分の気持ちを喋ろうとすると感情コントロールができず涙が出たりして息が苦しいことも少なく、優先順位をつけることも私ほど難しいことではないらしい。
経験したことがないから、感覚がわからないけれど、確かにそういうことがある。
こんな風に人それぞれの特徴がたくさんある世界の中で、ある一つの事象を持って「普通」だと断言し、それ以外を「普通と違うもの」として例外的に考えるのは、無理があるのではないか。
「普通」の人だけが社会にいる、という前提でルールを作ってしまうと、私のような「普通とは違う」人が社会に出ようとしたとき、無理をしてでも頑張って普通を装うことが正解になる。
無理をすれば、体を壊してしまう人もいる。
でもそれを、正解だ、なんて誰も言わないだろう。
誰だって、心と身体を壊してしまいそうな人がいたら、優しく「休んでください」と言うだろう。私の主治医が私に対してそうしたように。
誤解をしないで欲しいことがある。
この文章は弱者に優しくしてください、と言いたいわけではないということだ。
この文章を読んでいる「普通」だと思っている人と「普通とは違う」と思っている人が、お互いに無理をせず、コミュニケーションを取りながら、それぞれのペースで一緒に過ごすことができる社会を願って書いている。
だから、お互いに少しだけ、気遣う心を持って会話をして欲しい。相手と通じ合えるように。
もちろん、聞くことや伝えることに疲れたらお互い休んでも構わない。
休むことは全く悪いことではないから。
きっと1番良くないのは、会話をやめて違う種類の人間として認識し、別々に生活してしまうことだ。
***
好きな曲の一節がある。
僕が言葉を話す 君が言葉で答える
僕らの距離を埋めたのは きっと言葉だった
(amazarashi/月が綺麗)
私たちには意思疎通に使う言葉がある。
せっかく伝え合えるのだから、距離を広げるためではなく、埋めるために使いたい。
だから、あなたのことを少し教えてくれませんか。
そして、私のことも知ってくれませんか。
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