大人にうらやましがられたくなかった10代の私へ

学生の頃、大人に学年を聞かれ、答えるとよく言われる言葉があった。

「○年生かぁ。良いなあ、今を大事にするんだよ。何でもできるから。」

「うらやましいなあ、私もその頃に戻りたい。」

こんな風に、大人は学生を羨ましがっていたように思う。

私は、そんな言葉を聞くたびに、まただよ、と感じて思っていた。

何でもできるのは、大人の方ではないか、と。

この言葉を一番よく聞いたのは高校生の時だった。

バイトができない高校生の私に比べ、大人は働いていてお金もあるし、親に許可を取ることもなく、自由にものごとを決められるではないか。

なのにどうして、若さを羨ましがり学生に戻りたいなんてことを言うのだろう。

羨ましいのは、こちらの方だ。

そんなことを思っていた私も、高校を卒業して就職し、成人して、大人と呼ばれる側になっている。

年齢とともに、大人が子どもを羨ましがっていた理由も少しだけわかるようになった。

というのも、大人にはきっと、時間がないのだ。

せっかく大人になって、自由にものごとを選択できるようになったのに、それを実行する時間がないのだ。こんなことを言うと学生にはお金がない、と言われそうだし、私の経験上それは事実なのだけれど、時間が欲しいなあ、と思ってしまうこともある。

時間があれば、たまりにたまった積読を解消したい。美術館を巡ってみたい。きれいな景色を見に行きたい。全然進んでいない大学の勉強をしたい。

なんだか学生の頃の大人と同じようなことを口にしてしまったけれど、それでも私は学生に戻りたいとは思っていない。学生の頃には、考えたこともなかったものに興味を持つことが増えたからだ。

学生の頃趣味だった読書や音楽鑑賞は今でも続けているし、就職してお金ができたこともあって、コンサートなど学生の時は手が届かず我慢していたものを楽しめることも増えた。

それに加えて、学生の頃にはしなくていいと思っていた大学進学、興味すら持たなかった美術館めぐり、文章を書くことなどに興味を持つようになった。

学生の頃には、全く興味を惹かれなかったこれらのことに、惹かれるようになったのは義務感から解放されて、自由にものを考えることができるようになったからではないかと思っている。

学生の頃は、勉強や美術館で何かを見学することには、将来のためや授業の一環といった”物事を行う理由“がつきまとった。将来のため、と言われてもきっと多くの学生には大した意味を持たない。興味を持つきっかけも動機も大きくはないし、そもそも自分で決めたものではないからだ。それよりも友達と喋ったり、ゲームをしていたり、あるいは何もしないでいる方がよっぽど楽しいのではないか。

私はどちらかといえば与えられたことを粛々とこなして行くタイプの学生で、授業をサボったり先生に怒られるまでおしゃべりに興じたりすることは多くなかった。でも、そういう時間もその時にしか過ごせない、ある意味宝物のような時間だったのだろうな、と今は思う。きっと、時間があって、その時にしかない感性とコミュニケーションで過ごしていけることが大人はきっとうらやましいのだ。

大人になると、そういった他者から意味付けされる学びはなくなる。

学ぶことも遊ぶことも自由になり、理由がいらなくなる。もちろん、それらをしない選択だって出来るし、それによって誰かに責められることもなくなる。

学びも遊びも他者が納得するような”理由”を必要とせず、自分の決断だけで出来るようになった時、急に興味が湧いた。それまで何かを始めるときは、お金をだしてもらう両親を説得し、納得してもらってから始めるしかなかった。また、始めた後は進捗を気にされる。きちんとやっていなければ、怒られたり小言を言われたりする。このことは今考えれば出資する側としては当然のことなのだけれど、当時はとても煩わしいことだった。

さらに、学生の頃の学校の勉強は、それを教わる理由も到達するべき目標もあって、それに基づいて進んでいく。

対して、大人になってからの勉強は種類も方法も考え方も好きなものを選べる。遊びも同じだ。始めたり進めたりする過程で自分以外のけれど、誰かを説得することも、納得させることも必要としなくなるのだから、学生の頃より格段に楽しい。(ただし、時間や進捗の管理も自分でしなくてはならない。そこは苦戦するところだ。)自分で勉強したり遊んだりすると、自分の好きな角度で、好きな考え方で楽しめるからだ。

自分で好きなことを学んでいたり、遊んだりすると、今までそれぞれの事柄単体で認識していたものが、改めて見ると思わぬところで繋がっていたり、繋がりを意識するとさらに面白かったりすることがある。

例えばよくある大河ドラマひとつとっても、日本史の流れを頭に入れて観るか、それ単体で観るのかで変わってくるのではないか。実際、私は中学校を最後に日本史を勉強していないのだけれど、両親が見ている大河ドラマを覗き観ると、知っている人物であっても、繋がりがいまいち思い出せずに、これを知っていたらもっと楽しいのだろう、と思うこともある。

こういった、勉強だけどこの事柄を知っていると人生がちょっと楽しい、というようなことを教えてくれるような体験は学生の間はとても少ないのでは、と最近感じることが増えた。もうちょっと早く教えてくれていたら、私も就職に必要な科目だけではなくて、色々な科目を取ったのに、とも感じてしまう。

でも、きっと学生でいる間は義務感が強くなって、どうしても作業的に理解を進めてしまったのかもしれない。勉強と遊びの楽しさが少し分かるようになった今の方がもっと深くゆっくり理解できるかもしれない。

そう思ったら、あの時の大人は学生を羨ましがっていたけれど、私はやっぱり大人の方が楽しいのではないかと思っている。

だから私は、あの時大人にうらやましがられることを疎ましく思っていた私に言いたい。

大丈夫、大人の言うことは少し正しいけれど、私は楽しさを見つけられるよ。

あの時より大変なこともあるけれど、楽しいこともたくさんあるよ、って。

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