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備前焼をたのしむ

備前に遊びに行ってきました。

去年、夫と行ったきり二度目です。
いえ、もしかしたら子どものころに何度か行っているかもしれません。

実家の父母が好きで、思えば備前焼はくらしの身近にあるものでした。
「これで飲んだらビールがうまいんや」
父が言うので、へえ、お気に入りで飲んだら、飲み物はおいしくなるもんなんだぁ、と子ども時代になんとなくそういう価値観が育ったんだと思います。

今回、茶道仲間の女子4人で遊びに行ったのですが。このメンバーとは焼き物巡り美術館巡りをかれこれ4年ほどしています。
ふだんお稽古場でも、何焼きの作家の誰がどうだとかいう話が飛び交い、私にはそういうのがとんと覚えられず、どこか日常離れして聞こえていました。

今回、備前行こうという話になったときも、なんとなくお供しようといった気分で、行ったことあるよとか好きなんだよねとか、あまり自分から語ることもなく。というか自分にそういうストックがあるって意識できなかったんですね。

だけど行ってみたら、あ、こういうの使ってる。知ってる。持ってる。これも見たことあるな。
ベージュ地に緋襷(ひだすき)もいいけど、黒くゴツゴツしてるものや、銀に光ってるのも好きだな。
ろくろで薄くしてあるのもいいし、手びねりの厚いのもいい。
いろんな見方が出来たんです。

日常にあるから、使い方のイメージも何通りも浮かぶ。

お茶のお道具は、箱にしまって、出すときは丁寧に扱い、指輪や時計を外してしっかり両手で持って、まじまじ味わうもの。
実家のお皿は、片手でひょいっと持ち運び、がしゃんと重ね、洗剤でジャブジャブ洗うもの。

その両者が、なにかじつはすごく近いものだったことに気づきました。

くらしの道具を慈しむといった感覚を、わたしきっと忘れていました。
家族それぞれのぐい呑みを父が一つ一つ楽しそうに出してくる姿、冷奴のお皿を「これはお父さん、これは貴女ね」と指定して配膳する母。
あー、彼ら、人生楽しんでるんだなあ。

お茶仲間のように由緒ある立派なおうちの子じゃなくても、私にはそういううつわへの慈しみの素地がちゃんとあったじゃないか。

ちなみに、備前焼には遠赤外線効果があって、お水を入れておくとまろやかにしてくれる作用があるんだとか。
「これで飲むとうまい」は、なにも気分だけのせいじゃなかったんだと。
もちろん気分も大事ですが。

そういう学びもあり、今回は、わたしのルーツ、もとから持ってたものが、今の自分にちゃんと蓄えられてるし引き継がれてる。そんなことを感じられた旅となりました。
茶友に感謝。
父母に感謝。

年に一度の備前焼まつり、今年は来週10/19(土)20(日)だそうです。
土曜日は結婚式のお呼ばれで行けないけど、日曜日行けたらいいなあ。疲れてるかなぁ。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。


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