法治国家よりお上の言葉なのか

芸能人が法を破って逮捕されると誰もが何かを言いたくなる。誠実なイメージを買われて評価されていた人に、その誠実なイメージと裏腹な行為について罵詈雑言を浴びせることは今や誰にでも出来る。

一方、政治家が法を犯しているかもしれないのに、自分たちの納めた税金が不正に流用されていたかもしれないのに、国会で問題になっているのに、ほとんどの人はそのことに関心がないように見えるのはどういうわけなのだろう。政治家というのはそういうものだというイメージで見ているからなのだろうか。エライ先生が白といえば白ということなのだろうか。

ここには、法律の手続きを踏んで事件を裁こうという法治国家の論理より、お上の言葉が物事の良し悪しを決める水戸黄門的時代の倫理観の方が今でも優勢なのが見て取れる。

噂話を元にした架空の悪事を暴きたて、やれ迷惑だと大合唱し、悪いやつを社会的に抹殺して溜飲を下げる。だって、水戸黄門がいたら私たち庶民の言い分を聞いて手っ取り早く事件を解決してくれたから。明日にはまた別の事件が起きるはずだから。

本当は、刑事事件を疑われたら、然るべき手続きで逮捕され、容疑が固まれば起訴される。ここで初めて裁判となり、法律に反する犯罪を犯したのかどうかが問われることになる。裁判官が判決を読み上げるまでは、被疑者はあくまで容疑を疑われている段階で、犯罪者ではない。

いづれにしても、逮捕をされたのだから、あとは法が裁く。そこではもう個人の好き嫌いや正義感など関係がないのだから、追い討ちをかけて、私的に裁く必要はない。そもそも私たちの生活に直接関わりのある案件なのだろうか?

私たちの生活に直接関わりのある案件はもっと他にあるのではないのか。

実際に社会にとって影響力が大きいのは、テレビで演じている人がやったルール違反ではなく、今も私たちの未来を決める立法府にいる人たちがルールそのものを議論も尽くされていないのに、ある利益に誘導して変えようとしていることではないのか。

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