恐怖と希望

新聞紙が溜まってきて、もうこれ以上積んでおくのは無理だな、と思うと腰を上げて、新聞紙の片付けに手をつける。その時に、一応取っておくものがあったかな?というつもりで一面をサッと見る。こうして半年とか、多い時は一年分の新聞紙を見ながら、過去の時間をもう一度旅するように起こった出来事を反芻する。

昨年末のイタリアでの話題はイギリスが欧州から脱退することや、アフリカから船でやってくる難民の問題、人権問題、失業問題、地球環境の運動をやっていたグレタさんの話題、そしてもちろんトランプ大統領の話題や中国の話題、一番多いのはやはりイタリアの国内政治問題。

こうしたいわゆる日常がある日、ロックダウンによって終わりを告げる。それまでしていた会話や喧嘩が、突然起こった地震によって中断されるように。恐怖は何よりも強く、関心はそこに移り世の中を突然変えてしまう。

実際にこの日から新聞はコロナウイルスのことしか話題にしなくなる。それしか起こっていないわけではないし、それまであった様々な問題は解決したわけでもない。

恐怖は人の行動を変えるのに一番強い力を持っていると思う。しかも恐怖は伝播しやすい。テロや災害がもたらす悲しい出来事、その恐怖から人は変化を受け入れる。私の記憶の中にある歴史を変えた出来事も、そのきっかけを作ったのは恐怖だったと思う。

変化は結果的にはよい結果をもたらすこともある。けれども恐怖は人から判断力を奪ってしまう。恐怖に駆られた行動はよい結果をもたらさないことが多い。

大人の役割は恐怖を撒くことではないと思う。恐怖は放っておいても生まれて伝播する。人は恐怖に支配されるとパニックに陥り暴走する。そして新たな悲劇を生む。

もし人生を経験してきた大人ならば、撒くべきは恐怖ではなく希望だと思う。希望は恐怖に対しバランスをとってくれる。暴風の中で船が流されるのを防ぐ重石になってくれる。暴風の中ではできることは限られている。錨を打って嵐が去るのを待つしかない。嵐が収まったらその時にやるべきことをやればよいのだ。手っ取り早い恐怖ではなく、時間がかかっても希望を。

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