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①サボテンをかじる女

ウチダクミは人ごみの間を縫うようにゆっくりと最短距離で近寄ってきた。

ああ、こいつは俺を刺そうとしてるんだろう。

日曜の昼に若い女に心臓を突かれてあの世に行くのも悪くないのかもしれない。

女が長くて黒い髪をなびかせて気怠そうに歩く目を見て、なぜか俺は少しホッとしていた。


『行きつけのカフェに行きませんか?』とウチダクミは自己紹介もろくにないまま、俺を誘った。声は意外にも低くて白いタンクトップと妙に合っていやらしく感じた。

女の行きつけのカフェは路地裏のボロボロのビルに入っていた。

こんなビルの中にカフェが入ってるのか。もしかしたら人身売買されて内臓でも売られるんじゃないか。

俺は先ほどの自信が消え失せて、早く家に帰りたくなっていた。こんな正体不明の女と遊ぼうと思ったのが間違いだった。

薄暗くてエレベーターもないビルの中は公園の公衆便所のような古臭いアンモニア臭が漂い、陰湿な空気が充満していた。

女は言った。

『ここで10年前にセブンスターを吸った煙がまだ残ってるのよ。残り香、分かる?』

これが女の冗談なのか分からないが、俺は何故か小さく口笛を吹いて首を横に振った。

ビルの5階に『Vallow バロー』と木に彫られた看板があり、そこで女は看板を指さすと『バロゥ』と一段と低い声を出して、俺の目を見てケラケラと笑い、店のドアを開けた。

カラン、カランと古い鐘の音が鳴り、店内が見えた。

古い木で出来たカウンター席だけの狭い店内には60代後半位の神経質な白髪頭のマスターが1人でリンゴをカットしていた。

女は椅子に腰かけるとマスターに『サボテン切ってちょうだい。』と言った。

マスターは無言でカウンターに生えていた観葉植物のサボテンをむしるとペティナイフで小さく切り、何かの赤いソースをかけて皿に盛った。

『夏はこれを食べると夏バテ防止になるのよ。ペヨーテが効いてるからお酒を飲まなくても酔えるって日本人にピッタリでしょ?』と指でサボテンをつまむと小さくカットされたサボテンを大切そうに何度もかじり、指についた深紅の赤いソースを舌先で舐めた。

女の口の中からはサボテンを噛み砕くジャクジャクという音が店の中に響いた。

こんな映画あったな。どこだっけ?フランス映画だったかな?

俺はあまりの官能的な光景に吐き気がするほど興奮し、女の真似をしてサボテンをひとつまみ食べた。

赤いソースは絶妙に熱く、サボテンはプルプルと口の中で弾んで、噛むと歯と歯の間に入ってはスルリと逃げ出してどうやって食べたらいいのか正解も分からず、恥をかく前に呑み込んだ。


『あなた、小銭持ってる?』と女は言った。

小銭?あるけど。

『じゃあ500円払ってくれる?乾杯しよう』と言うと、女は俺が渡した500円玉をテーブルの上を滑らしてマスターに渡した。

『Night Before にして。古いストリングが響くやつ。』女はサボテンを口に頬張り、注文する。

Night Before ?ビール?何それ?

俺がそういうとマスターも女も声を出して笑った。

『あなたジョークの才能あるわ。シンクタンクに勤めたりしてない?』とキラキラした目で俺を見て、俺の右手を軽く指先で触れた。

女の指は白くて細く、その瞬間に店内に音楽が響いた。

『Night Before はビートルズの中でも名曲なのよ。』女は今にも泣きそうな目をしながら俺を見つめる。

レコードを1曲リクエストするのに500円かかるのか。面白い店だね。

俺は女のことが好きになっていた。俺の知らないことを教えてくれる神様みたいな存在だった。

店の中にはジョンレノンの歌声が反響して、木の壁が楽器の音を跳ね返し、コンサートホールにいる気分になった。

『もう店、出ようか。この歌を最後まで聴くのは勇気いるでしょ?』

じゃあどこに行く?

『そうね。パスタでも食べようか?』と女は人差し指で丸をつくり、マスターにジェスチャーするとマスターはコーヒーにミルクを入れるような小さな銅色のカップを差し出した。

女はその中に唾を遠慮がちに吐くと、ジーンズから裸の5,000円札をテーブルに置いて店を出た。


次の店はオープンキッチンのお洒落なイタリア料理店だった。店のど真ん中でシェフが牡蠣を炒めたり、ピザを焼いて真っ白な皿に盛りつけていた。

ワインでも飲む?

俺が聞くと女は無表情で頷いた。

女の子だし、飲みやすくて安いワインにしようとメニュー表を見ると全てがフルボディだった。

この店は珍しいな。オイスター料理があるのに白ワインもないの?攻めてるねえ。

女はクスリとも笑うことなくテーブルに置かれたハンドベルをガランガランと不器用に鳴らした。


女はフォークを使ってアサリが入ったパスタの中央付近を盛り分けて空洞を作り、皿の底を見た。

『このお皿にはバーコードが入ってるのよ。あなたのスマホで撮影してくれない?』

え?いま撮影するの?食べ終わってからじゃダメなのかな?

『食中毒になるかもしれないじゃない。』女は声を潜めて怪訝な顔をした。

俺は言われるがまま、パスタの上から皿に印刷されたバーコードを撮影した。

『どう?大丈夫?』女は心配そうに見つめた。

そして女は軽く頷くと、パスタをゆっくりと食べ始めた。

『こんな日曜日もあるのねえ。見知らぬ男の人とボンゴレ食べて、トスカーナのワイン飲んで。お母さんが見たら卒倒するわよきっと。』女はクックっと笑った。

あ、お母さん厳しいんだ?同居してるの?

『放任主義よ。だけど円卓に2人でパスタ突いてるって、おかしいじゃない?』

たしかにカップルみたいだね。そりゃそうだ。

『そういうわけじゃなくてね。あなたを責めてるんじゃないのよ。やだな、私も少し酔ったのかな?』と女は恥ずかしそうに口元を紙ナプキンで拭った。

紙ナプキンにパスタの油が移るのを見て、この女が貧しい家庭なのか裕福な家庭なのか分からなくなった。

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