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男にはマウント。 それでしか生きることができなかったフランス女優 〜ロミー・シュナイダー〜

9月23日は、世界的映画女優、ロミー・シュナイダーが生まれた日。

(Romy Schneider、1938年9月23日 - 1982年5月29日)

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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オーストリア・ウィーン出身。祖母、母、父も全て俳優一家に誕生。

両親はロミーが5歳の時に離婚。

地元の小学校を卒業後、オーストリア・ザルツブルク近くのカトリック系の女子寄宿学校に進む。

頭脳明晰で国語から美術まで成績はトップクラス。それに負けず嫌いで、教師に嫌われたがゆえクラス代表に選ばれなかったときには、正面切って抗議に向かうほどだったという。

演劇では、才能を発揮。

将来は女優になると決めていた。

14歳で寄宿学校を卒業。

ほどなく母マグダの主演映画『再び白いライラックが咲いたら』で映画デビュー。

3作目の『女王さまはお若い』で主役のヴィクトリア女王役に抜擢され、翌1954年、オーストリア皇后エリーザベトを演じた『プリンセス・シシー』が大ヒット。

ロミーは16歳にして一躍ヨーロッパ映画界のトップスターに。この役のイメージはのちに生涯にわたって、ロミーを苦しめることになる。

その頃、母マグダが、再婚。相手は実業家ハンス・ヘルベルト・ブラッツハイムといい、マグダとハンスはロミーの莫大なギャラを自身の事業に投資、後に破産。

10代のロミーにハンスは性交を迫るも、ロミーは、それを決して許さなかった。

ロミーはそこで、男にはマウントを取ることを覚えた。そうしなければ身を守れなかったのだ。

プリンセスのイメージのついたロミーは、それを脱皮し大人の女性の役をしたがったが、ドイツのマスコミはそれを認めようとしなかった。

1958年『恋ひとすじに』で無名のアラン・ドロンと共演。お互いの最初の印象は最悪だった2人。が、共演するうちに、恋に落ちた。

プリンセス的な役を期待するドイツへの幻滅と、何かと干渉しようとする母・継父への反抗も重なり、ロミーは、パリのドロンの元へ出奔。清純なイメージを裏切ったとしてドイツからは非難され始める。

が、フランス語を満足に話せないロミーには仕事がなかなか来ず、ドロンは新たな仕事が次から次へと舞い込み、2人の仲は険悪になっていった。

1960年秋、『若者のすべて』(1960年)に主演したドロンがルキノ・ヴィスコンティ監督をロミーに引き合わせたことが転機となり、ロミーは、昼夜問わずフランス語の猛特訓を受け、監督からは厳しい演出を受け、見事に難役をこなした。

ロミーが受けた役柄は、官能的なものも多かったが、ロミーは役柄を広げていった。

しかし、婚約者のドロンとは忙しくなるにつれすれ違いが重なり、破局。ドロンは、ナタリー・ドロンと結婚。

打ちのめされたロミーは、14歳年上のハリー・マイエンと結婚。

当初、不倫から始まった恋愛であったため、バッシングを受ける。ロミーは、マイエンの子を宿していた。

この子供こそ、のちに悲劇を生む息子ダーヴィット・クリストファーだった。ロミーは目に入れても痛くないほど可愛がった。人生でマウントを取らなくてもいい唯一の男性なのだったから、なおさらだった。

ロミーがマイエンと結婚したのは、ドロンへの当てつけ、そしてドイツの舞台に立ちたいという願望から。

が、ロミーが思ったような実力を持っていなかったマイエンはやがて仕事もうまくいかなくなり、ロミーは、思うような仕事をすることもなく、2年が過ぎた。

忘れられかけていたロミーに突破口を与えてくれたのは、かつての恋人ドロンだった。

ドロンは、ロミーを『太陽が知っている』の相手役に指名。カムバックを果たし、フランスの代表的女優となっていく。

その陰で、夫マイエンとの夫婦仲は冷めていった。ロミーが、34歳の時、別居。

36歳、ロミーは『L'important c'est d'aimer』という官能的な映画で、第一回セザール賞主演女優賞を獲得。文字通りフランス映画界のトップ女優となる。

この1975年7月ロミーとマイエンは正式に離婚。

息子ダーヴィットの親権はロミーが持った。

かねてより交際していた11歳年下の個人秘書のダニエル・ビアシーニと同年、ベルリンで再婚。

1977年、第二子サラ・マグダレーナを出産。

2度目のセザール賞主演女優賞、ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞するなど、女優人生の頂点に立ち、そのプレッシャーに自分を次第に追い詰めてゆくようになる。

元夫の自殺。

人任せにした結果、ずさんな金銭管理による追徴課税。

そして破産。年齢を経ることによる容貌の劣化。

年下の夫ビアシーニへの不信感。

精神的にも肉体的にも不安定になり、アルコールと薬に溺れるようになる。

ロミーが愛人ロラン・ペタンを作ったことで、1981年、ピアシーニとも離婚。

継父のビアシーニになついていた息子のダーヴィットは母の新しい愛人を拒絶し、ピアシーニの両親ものの元に身を寄せる。

1981年7月5日、14歳のダーヴィットはたまたま留守だったビアシーニ両親宅の垣根を飛び越えたとき、足をすべらせ、鉄製の鋭い角棒に身を貫いて無残な事故死を遂げた。数日後の葬儀はアラン・ドロンが手配した。

翌年5月29日、ロミーは、寝室で突然死を遂げていた。近くには、空になったバルビツール催眠薬の容器、居間にはやはり空になったワインの瓶があった。

葬儀は6月2日、やはりアラン・ドロンの手配でボワシー=サン=ザヴォワールの教会で行われ、その墓地に息子ダーヴィットと共に埋葬されている。

1984年、フランス映画界の将来有望な若手女優に贈られるロミー・シュナイダー賞が創設された。


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