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シシィの孫娘が赤い皇女といわれた理由 〜エリーザベト・マリー・ペツネック〜

9月2日は、今日は、ハプスブルク家の大公女であったエリーザベト・マリー・ペツネックが生まれた日。

のちに社会主義に傾倒し、『赤い皇女』といわれた。愛称は「エルジ」。(1883年9月2日-1963年3月16日)

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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オーストリア皇太子ルドルフと
その妃ベルギー王女ステファニーの一人娘。

ラクセンブルク宮殿で誕生。

ヨーロッパー美しいと謳われた
あの皇后エリーザベトの孫にあたる。

父ルドルフは、
祖父フランツ・ヨーゼフ1世の帝国主義とは異なり、
祖母エリーザベトと同じ自由主義的な思想を持っており、
そのため父帝に強く反発し、そ
の絶対君主ぶりを激しく非難していた。

終焉を迎えつつあったハプスブルク家は、
まさに混乱の渦中にあった。

5歳の時に父ルドルフが
「マイヤーリンク事件」にて死去。

15歳の時に祖母エリーザベトが暗殺される。

この頃からエルジは密かに
社会民主党の機関紙を購読するようになる。

皇帝フランツ・ヨーゼフは、
孫娘エルジをを不憫に思い、
目の中に入れても痛くないほど可愛がった。

美しく成長したエルジが舞踏会へ行った際、
長身の将校、オットー・ヴィンディシュ・グレーツに一目惚れをし、相手に婚約者がいるにも関わらず、結婚を強行。
貴賤結婚だった。

子供は4人授かったものの、
やがてオットーは、
元の婚約者と逢瀬を重ねるようになり、
それを知ったエルジは別居。

子供達の養育権訴訟に発展していく。

当時、絶対的な家父長制度であった為、
財産があっても、別居すると子供は夫が引き取るといった法制度であった。

やがて子供達が強制的に引き取られそうになった時、
戦時中、エルジが援助していた社会民主党の党員たちが
エルジと子供達を守った。

このことがきっかけとなり、
既婚者であった社民党の党首レオポルト・ペツネックと
愛し合うようになる。

1938年、オーストリアがナチスドイツに併合された後、
1944年8月22日にペツネックは逮捕され、
ダッハウ強制収容所に送られるが、
1945年6月に解放されてエルジの元へ戻った。

エルジは第二次世界大戦中、
ウィーンで亡命者の援助などをしていた。

1948年にオットー・ヴィンディッシュ=グレーツと
やっと離婚し、ペツネックと再婚した。

1956年、ペツネックが亡くなり、
その7年後の1963年、エルジは79歳で亡くなった。

墓石には名前も碑文も記されなかった。

また、遺品や絵画はすべて国に寄贈するという遺言を残した。

「ハプスブルク家のものは国に返すべき」と
常に考えていたそう。


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