見出し画像

織田、豊臣、徳川そして天皇家を融合させたお姫様

11月23日は、第108代天皇・後水尾天皇の皇后(中宮)であった徳川 和子(とくがわ まさこ)が生まれた日。

徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。女院号は東福門院(とうふくもんいん)。109代天皇・明正天皇の生母。(1607年11月23日- 1678年8月2日)

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

公式LINEへの登録で、毎月偉人・貴人のカレンダーを配信中。
最下部からご登録ください。

徳川秀忠の五女として江戸城で誕生。母は豊臣秀吉の養女であり織田信長の姪、お江与。
幼少時の名は、松姫(まつひめ)。

家康は徳川家へ権力を集中させるため、まだ6歳だった内孫の和子を後水尾天皇に入内させ、天皇との外戚関係をつくろうと画策。家康が死去した後は、2代将軍・秀忠が方針を継いだ。

和子は、13歳で入内。

江戸を出発した徳川和子の行列は,20日間を費やして東海道を上り,京都入りした。

和子に対する女官たちの眼は冷ややかで,公武の習慣の違いも和子を戸惑わせた。が、和子の心を慰めたのは天皇の生母・中和門院であった。彼女は陰になり日向になって和子を庇い,優しい姑の思いやりを示したので,生まれながらの姫君で素直な和子は宮廷の生活にも馴染み,和やかな日々を過ごすようになった。

1623年には16歳で懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男・家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石が寄進される。同年11月19日には皇女・女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。

もとは政略結婚であったが,和子の誠意と中和門院の賢明な指導が,皇后として立派に幕府と朝廷の間を取り持つクッション役となった。

入内後,和子は一度も江戸に帰ることなく,宮廷人としての生涯を貫いたそう。

1678年6月15日崩御。享年72歳。姑であった中和門院と同じ墓、京都泉涌寺月輪陵に眠っている。

和子は、宮廷のファッションリーダーでもあった。

身の回りを飾る着道楽で有名で雁金屋(尾形光琳・乾山兄弟の実家)という京都の高級呉服商を贔屓にしていた。

雁金屋は2代目・道柏が近江の浅井長政の家来筋であり、長政の3人娘である「淀君、茶々」、「京極高次夫人、お初」、「お江、和子の実母」に引き立てられて、高級呉服商になっていた雁金屋であったが、最大の顧客であった和子が亡くなると、雁金屋は大名貸しに手を出した。

その結果、回収不能が重なって没落。この没落が尾形光琳の困窮に繋がり、光琳が生活のために絵を描き始め、今日国宝・重要文化財として扱われるものが生み出されるきっかけになった。


サロンドフルールイコア公式LINE
お友達登録でウーマンズストーリーカレンダーを配信しています🌹

▶友達追加はこちらから

🌷 青木恵インスタグラム
🌷 ikoa 公式サイト

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?