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ドイツ女子教育の礎をつくった皇后〜ヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ〜

11月21日は、プロイセン王フリードリヒ3世のヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズが生まれた日。(1840年11月21日-1901年8月5日)

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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ヴィクトリア女王とアルバートの長女として王宮であるバッキンガム宮殿で誕生。

家族からは「ヴィッキー(Vicky)」という愛称で呼ばれ、非常に愛された。

ドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世に嫁いた後は、宰相ビスマルクに目の敵にされ、冷遇されたが、夫を"フリッツ”と呼び、夫婦仲は良かった。

が、三男ジギスムントと四男ヴァルデマールの二人の息子を幼くして亡くしていた。また、結婚前、フローレス・ナイチンゲールに衛生学、病院の管理学などを学んでいた。

このことから病院作りに力を入れるようになる。

まず戦場が近いハンブルクの古城に移住し、私財を投入しそこを病院に作り変えた。さらに「ヴィクトリア・ハウス」という看護学校も設立した。

託児所を兼ねた幼稚園もつくった。

それだけでなく、女子高等教育のための学校を創設。

ドイツのさまざまな階層から非難を受けるも、ヴィッキーは諦めることなく、女子に幼稚園経営や家政学を教え、多くの女性教師が誕生し、後にスコットランドやイギリスから留学する生徒も出てくるようになったそう。

フリッツは長年にわたるヴィッキーの慈善事業の成果を非常に喜び、やがてプロイセンの人々もヴィッキーを歓迎するようになった。

1888年3月9日に義父のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が崩御。夫フリッツがドイツ皇帝フリードリヒ3世として即位したものの、癌により3ヶ月で崩御。

未亡人となったヴィッキーを慰めようと、国民からさまざまなものが届いた。

そのうちの一つが、『フリードリヒ皇后トルテ』。

白いアイシングがかけられたフリードリヒ皇后トルテは、「ビクトリアのバターケーキ」とも呼ばれている。このトルテ(ケーキ)は、ドイツでは使われず、イギリスのお菓子の材料として使われていたベーキングパウダーを使ったもの。紅茶に合うヴィッキーの故国イギリスを思い出させるお菓子だった。

生涯、母ヴィクトリア女王と手紙のやり取りをし、それは4000通にものぼった。1901年、母と同じ年に崩御。享年60歳。


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