光太郎との愛を貫き、共に美の探究に生きた女性
5月20日は、洋画家、紙絵作家であった高村 智恵子が生まれた日。(1886年5月20日 - 1938年10月5日)
夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。光太郎が出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。
【生い立ち】
福島県安達郡油井村に生まれる。
酒造業を営む資産家、長沼今朝吉と妻、せんの間に生まれる。
1901年に油井小学校高等科を卒業したのち福島高等女学校を主席で卒業、日本女子大学校へと進んだ。
当時の同級生からは、
「落着いて口数少なく物事に熱中する一面、決して真面目一方ではなく、ユーモアに富み不意にみんなをあっと言わせる智恵子であった」と。
在学中に油絵に興味を持つようになり、卒業後は、「世の慣習を無視しても、たった一度しかない自分の生涯を自分で選びとろう」と女性洋画家となる。
【若手芸術家として】
25歳の時、創刊されたばかりの雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若手女性芸術家として注目された。
智恵子は『女の生きていく道』の中で「男にも自由があるように女にも自由がある。是れが男女を通じてその生活の根本である。どう考えてみてもこの根本は動かない」と述べている。
【光太郎との結婚】
智恵子にとって光太郎との出会いは大きな刺激となり、絵の制作活動が旺盛となる。
光太郎にとっても智恵子の存在はインスピレーションとなり、智恵子に贈る詩が次々と世に現れるようになる。
智恵子が28歳の時、結婚。駒込のアトリエで光太郎は彫刻、智恵子は油絵に熱中した。
【実家の喪失と精神病】
智恵子の父、今朝吉が1918年57歳で没すと、事業の不振や家庭のいざこざから家業が倒産し、一家は離散。帰るべき故郷が無くなってしまった。
さらに智恵子は主婦業、家計のやりくり等、芸術家の夫への気遣いなどで、自分の作品どころではなかった。それは、徐々に智恵子を蝕み、やがて46歳で精神分裂病を発症。その後、睡眠薬による自殺未遂を引き起こす。
光太郎は智恵子を伴い、故郷福島の温泉や九十九里浜への転地療養をするが症状は良くならず、やむなく南品川ゼームス坂病院に入院させる。
【紙絵で開花】
光太郎が提案した紙絵で、才能がよみがえり、一年に満たない月日に千数百の紙絵となった。 智恵子はただひたすら光太郎に見せるために創作していた。
智恵子は夏頃から病状が悪化し、紙絵制作も休みがちとなり、粟粒性肺結核のため、光太郎に見守られながら52歳の生涯を閉じた。
【智恵子抄】
智恵子の死から3年後、光太郎が智恵子への鎮魂の想いをこめて、詩や散文をも含む詩集『智恵子抄』を出版した。『智恵子抄』は戦時下の暗い世情の中で人々の感動を呼び13刷を重ね、智恵子の純愛が人々の心に浸み通った。
【光太郎の晩年】
第二次世界大戦で、戦意高揚の詩を書いた光太郎は自分を恥じ、戦後7年間もの隠遁生活に入る。そこは三畳ほどの小さな土間だけの山小屋で、あとは自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らしたそう。
1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。光太郎、享年73歳。
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