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新聞広告で夫に離婚を突きつけた女性 〜柳原白蓮〜

10月15日は、大正から昭和にかけての歌人、柳原 白蓮が生まれた日。

本名は宮崎燁子(あきこ)、旧華族、柳原家出身。大正三美人の一人。白蓮事件で知られる。

(1885年10月15日 - 1967年2月22日)

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ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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東京、麻布出身。華族である柳原前光伯爵とその愛人の間に生まれた。

大正天皇の生母が叔母であったため、大正天皇とは従兄弟にあたる。

1894年、燁子10歳の時に、子爵・北小路家の息子である資武(すけたけ)の妻にするために、北小路隨光(よりみつ)の養子とさせられた。そして15歳で妊娠させられる。資武より、常に罵詈雑言、家庭内暴力を振るわれていた。

が、子育ては養父母に取り上げられ、21歳で離婚。実家に戻ることに。

"行くにあらず 帰るにあらず 戻るにあらず 生けるかこの身 死せるかこの身"とは、当時の燁子の句。

実家に帰るも、本宅には入れてもらえず、離れで幽閉され、さらにまた、政略結婚されそうになる。が、それを拒否。姉、信子より古典や小説などの差し入れで、燁子は文学に目覚める。

燁子が24歳の頃、東洋英和女学校(現在の東洋英和女学院高等部)に編入学し、寄宿舎生活を送り始める。

2度目の学校生活は、自分よりも若い同級生たちともすぐに打ち解け、中でも後に翻訳者となり『赤毛のアン』の翻訳でも知られる村岡花子とは特に親交を深め「腹心の友」となった。

また、信子の紹介で短歌の「竹柏会(ちくはくかい)」に入門し、歌人としての一歩を踏み出した。

が、それもつかの間、26歳の燁子に、またも縁談が持ちかけられる。縁談の相手は、九州の炭鉱王と呼ばれる伊藤伝右衛門、50歳。ここには燁子の兄の選挙資金欲しさ、伝右衛門の名誉欲何絡み合った逃れられない政略結婚だった。

嫁いだものの、聞いていた話とは違い、伊藤家には、愛人の子供や、愛人など、複雑な環境だった。

その中で、燁子は、短歌に情熱を注ぎ始め、赤裸々な短歌に驚いた師のアドバイスにより、本名ではなく雅号の使用をつかいはじめる。これが、歌人・柳原白蓮の誕生だった。

そして、福岡社交界の華と活動始めた。31歳の頃には、画家・竹久夢二が挿絵を手がけた豪華な装丁の歌集『踏絵』を自費出版。この年、大分に広大な別荘が完成し、多くの文化人が訪れる白蓮のサロンとなった。

36歳となった白蓮に、運命の出会いが訪れた。

新たな書籍の出版が決まり、打ち合わせのために編集担当の宮崎龍介が白蓮のもとを訪れた。

龍介は彼女よりも7つ下の29歳。東京帝国大学法科の3年に在籍しながら新人会を結成し、労働運動に打ち込んでいた

やがて、2人は恋に落ち、白蓮は龍介の子を身ごもった。

白蓮は、1921年秋、『大阪朝日新聞』に、燁子から伝右衛門への絶縁状が公開され、燁子は、龍介と駆け落ちを決行。

これが世に有名な『白蓮事件』となった。

この後、自分で選び取った人生は、姑と共に夫を支え、自分で書き、稼ぎ、社会活動をし、質素な生活ながらも、81歳まで生きた。

夫となった龍介は、白蓮の死後、

『少なくとも私は伊藤や柳原の人々よりは、燁子の個性を理解し援助してやることができたと思っております。波乱に富んだ風雪の前半生をくぐり抜け、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだと思います』と語っている。


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