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アメリカの女流小説家、マーガレット・ミッチェル

11月8日は、アメリカの女流小説家、マーガレット・ミッチェルが生まれた日。

『風と共に去りぬ』の作者で知られる。10年を費やして執筆した唯一の長編『風と共に去りぬ』は、1936年に刊行され、ピューリッツァー賞を受賞。3000万部売れたという。

(1900年11月8日 -1949年8月16日)

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グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

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ジョージア州アトランタ出身。
裕福な弁護士の家に生まれた。生粋のサザン・ベル(南部娘)である。

母方の祖母が南北戦争の生き証人だったので昔の南部の話を聞いて成長した。父もアトランタ歴史協会の会長だった。マーガレットの亡くなった母は厳格なカトリック。スカーレットの母と同じ。

本になった唯一の作品「風と共に去りぬ」のモデルは実は彼女自身だった。事実、社交界の華であった。また、6人にプロポーズされたそう。フラッパーの申し子で「アパッシュダンス」を踊ったという理由で南部の社交界からしばらく締め出された。

18歳の時アシュレイのような文学が好きで繊細なハーバードを出たヘンリーと婚約。第一次大戦でスミス大学に入学したマーガレットは汽車の中で偶然彼の父と向かいの席になり、同行していた母親とも家に招かれ非常に好かれたが、2ヶ月後ヘンリー戦死の知らせを受けた。

その2ヶ月後今度は母親がスペイン風邪で危篤の知らせを受けて帰郷。家に帰ると母は死んだ後で、父はショックで虚ろになっていた。スカーレットが戦火をくぐり抜けて帰宅したら、母がすでに死んでいたエピソードがあるが、彼女の経験が元になっているのだ。

大学を中退してアトランタに戻ったマーガレットは22歳で最初の夫レットと結婚。レッド・バトラーのようなタイプだったようだ。新婚旅行中に死んだヘンリーの思い出を語って彼の両親に絵葉書を出した事で、相手は激昂。最後はマーガレットが入院するほどのDVを起こし離婚。

25歳で再婚した二番目の夫ジョンは理解のある男性で、事故の骨折で引きこもりの彼女に励まして、この作品「風と共に去りぬ」が出来たそうだ。

自動車事故を3回、落馬事故を2回、ドレスに火がつく事故、腸の癒着、パーティで酒瓶が頭に当たったなど事故が多い人生で、死亡原因もタクシー運転手にはねられた事故だった。

享年48歳。波瀾万丈の生涯だった。


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