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和宮 親子内親王〜徳川の存続のために尽力した内親王〜

皆様、いつもありがとうございます✨グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。

楽しんでいただけたら、嬉しいです。


7月3日は、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)が生まれた日。
(1846年7月3日-1877年9月2日)

1846年7月3日-1877年9月2日

京都御所の東に隣接する橋本邸において、
仁孝天皇の第八皇女として生まれる。

母は側室・橋本経子(観行院)。
父・仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月26日に崩御しており、
和宮は母の里、橋本邸で養育された。
1851年7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約する。
しかし、その2年後の黒船来航によって国論が攘夷と開国に二分する中、
幕府が目論んだ公武合体政策の一環として、
和宮と14代将軍・徳川家茂の婚姻政策が持ち上がり、成婚。
家茂との夫・仲はとても睦まじいものだったそう。
ですが、わずか4年で、家茂を失い、その後は徳川家存続のために尽力。
当初、大奥との対立も維新後は次第に氷解していったようで、
1874年の東京移住後は天璋院を始めとする徳川家の人々とも親しく交流している。

天璋院とともに勝海舟の屋敷を訪れ昼食をとった際、
お櫃のご飯をどちらがよそうかとなった時は、
勝がもう一つしゃもじを用意して、
互いの茶碗にご飯をよそわせたという。
家茂と同じ脚気のため、31歳という若さで和宮も亡くなっている。
「家茂の側に葬って欲しい」との遺言のもと、
芝の増上寺に二人仲良く眠っています。


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