反省期

おはようございます。今日も良い一日を。


・・・という一文は、noteにテキストを投稿してる人には伝わるであろう。まず、投稿画面を開いて、真っ白な画面に「こんな一文から始めてみては如何ですか?」といった調子で、あらかじめ書かれているサンプルの文章というか、これで伝わったのだろうか??

書き出しの一文を思いつかなかったので、デフォルトの文章をそのまま引用した。という、それだけの話。


昨日の記事は「苦しい」という自分のその時の心境を分かって欲しくて書いた記事だったのだが、あの書き方では本当に何も伝わらない。

各方面に配慮すると、そうなってしまうのは仕方がないと自分を慰めているのだが、まあ暇を持て余してる訳だし。

今回は、話の核心に触れずに、それが伝わるようなものを書こうという試みをやってみたいと思う。これを書き上がった際に、今回書く自分の文の技量の無さが証左されるのだと思う。


「反省期」とタイトルをつけたのは実はレトリックで、本当は「半世紀」と書いた方がわかり良いと思うのだけど、それだと恥ずかしいので敢えて「反省期」というタイトルにした。

いったい何が言いたいのかというと、自分の年齢のことである。

自分は、五十になった。

しかし、あまり自分の年齢のことを明かしたくないので、「半世紀」=50年という言い方をさらに。「反省期」という言い回しに変えた。ややこしいことをしてる自覚はある。

話を前に進めよう。


今朝方、自分と同年代の方とお話をさせてもらう機会があった。

やっぱり年って重ねてみないと分からないことが多くて、例えばこれをマラソンに置き換えると。

2km走った人も20km走った人も同じように、感想は「しんどい」という言葉に変わりはないが、やはり20km走った人の方がより、そのしんどさがわかっていると、わたしは思う。

だから、年上は敬うべきだと昔、人から教えられたことがあったのだが。

2kmも20kmも言葉にすると「しんどい」に変わりはないのだけど、同じ20kmを走った者同士でないとわからない、微細な話というものがある。

年とってるだけでしんどいんだから、絶対に年上は敬うべきだと、わたしは考えないが、これは年寄りの戯言だと思って、読んでくれたらいい。


50代って中途半端だよね?

今朝方の会話で、わたしはそんな言葉を口にした。

何故かというと若くもないし、ジジイというのは少し早い気もするし。明確な基準はそこには無いと思うが、おまけに見た目には個人差もあるし、さらには「年齢とか関係ないすか?」と口にする者もいたり、色々だ。

しかし、自分の体感ではそんなことは無い。

それはお前の美に対する努力が足りないからやろ?と、言われてしまえば、そこで終わりなのかも知れないが、そんなことは無いのである。

これはさっき思いついた例なのだが、20代は50メートルを7秒台で走れたら、まあまあ平均だと思うのだが、これが60歳になるとどうだろう?

50メートル走り切るのに、10秒をオーバーしたとしても、まあしゃあないんちゃう??そんなふうに周りは思ってくれると思っている。


ところが、だ。

めちゃくちゃ筋トレとか、自分のボディのメンテナンスに気づかって、日々のトレーニングを怠らないといった努力をしない限り、どうしてもタイムというやつは落ちていく。

例えば、50になるとそれまで7秒台で走れてたのが、8秒台になったり、9秒台になったり。

これが同い年だったり、同年代であると「あ、わかる!」って言ってもらえると思うのだが、二十代のやつにそんなこと分かるはずも無い。

そんなこと、考えてみたら分かる当然のことなのだが、それをあえて文に書き起こして説明をしてみた。


そんなもん知らんやんけ、お前の体調のことなんか知るか!ど阿呆!!



・・・そう思う人はもう読まなくていいから、話を先に進める。

これ、実は年齢のことを言いたいのでは無く、人と人のすれ違いのことを言いたかった。

例えば、この話を色に置き換えて、喩えても良い。

仮に多くの人が「いいねー!」と賛同する赤色があったとしても、その人が見る赤と、他の人が見る赤はまったく同じように見えてるかというと、どうだろうか??

違うと思う。

でも「いいね」という言葉は同じだから、俺が見えてる赤は他の人にも同じ赤に見えて、よりその良さを語ろうとする。厳密にいうと、そこは語りたい人と、語らずに感じとり。推し黙る人に分かれると思うのだが、俺は語りたい派だ。

でないと、こんな誰が読んでるのか分からないところにこんなものを書かない。


そして、その「いいね」の意味が違ったと気づいた時、人はどう思うのだろうか??

大抵の人は「あ・・・すみませんでした」と撤退するか、「え?なんで俺の見てるこの赤色の良さが分からへんの??」と喚き散らすか。そんなところだと思う。

さっきも書いたように、自分はそう若くもなく、年齢を重ねたせいか会得したと自分では思い込んでる「すみませんでした」と言いながら「なんで分からへんのや?」と恫喝するようなテクニックを使う時がある。

それをやると、気付く人と気付かない人と、2パターンに分かれると思うのだけど、大抵の人は「なんか気分悪い・・」と感じ取れるのだと思う。

だって、そういう意図があった上での発言なり、言葉だったりするのだから。そりゃ、そうだろう。

しかし、そうした面ヅラは問題のない言葉を使ったとしても、そうした行為に及ぶことについてはどうだろうか?

客観的に見て、けして褒められた行為じゃないと思う。

だけど、それを口にするかしないかの差で。

口にする時、あえて罵倒のワードを使わずに、相手を攻撃してしまう時が自分にはたまにある。

そういう時って感情に走ってるというか、そんな沼に浸っていてというか。分かってないのだと思う。自分のことを。

で、変に年を重ねてしまい、そういう小狡い手を使って、相手に言葉を投げかけてしまう時がある。

わたしはこの一年で、そうしたことを何度か繰り返したように思う。

そのことで相手方を傷付けてしまったとするならば、そのことについては申し訳ないと思うし、ただこれはダサい言い訳にしか過ぎないのだが、悪気は無いつもりだった。

しかし、誰かを傷付けたとするならば、その点については申し訳なく思うし、改めていきたいと言う気持ちもある。

何よりそうしたことを重ねて損をするのは自分でもあったりするので、自分の健康にも良くない・・・と書くと、本音を書き過ぎてしまったことになるのだが。


さらに俯瞰して物事を見ていくと。

こんなもん簡単な言葉に置き換えることも可能だ。

反省してると書いた以上、ここでは置き換えないが。


つまり、喧嘩をするならそれなりの覚悟が必要だよねって話です。

そして、今はデジタル社会。まるですべてが可視化されてしまい、一度デジタルの海に残したものは消えないと思った方がいいような状況に、我々はいると思う。

その覚悟が自分には無かった。

つまり、今の自分の年齢がそうであるのと同じように、中途半端だったのだ。

築いた信頼を壊すのは一瞬で、そこはお互いの配慮が必要だったと思う。


本来なら、もっと短い言葉で、それを感じさせる技量が必要とされているのが、現代社会なのだと思う。

それが出来てない時点で、自分は技量がないとみなされも仕方がない。

思いつかなかったのだから仕方がない。

もっと短くて、適切な言葉が。

もうちょっと、それを短い言葉にまとめるまでには時間を要するんだと思う。自分の場合は。

いや、そもそもセンスがあるかどうかの問題もあると思う。


いい加減、長くなってるので、もう締めに入ろうと思う。

自分はこの赤が良いと思ったので、ついそのことについて述べてしまったが、それが人によっては圧が強いと感じることもあるだろうし、他の要因もたくさん考えられるし、そもそも人の心の中のことなんて分かりかねるし、思ったことをそのまま書いていいのか?というと、それにはそれ相応の心構えというか、覚悟が必要だし。じゃあ、それをオブラートに包んで伝えたとしても、根底にある意思は何なのか?が問われると思うのだ。結局。


文章とは。

人に伝わる文とは、頭の中で誰に届けたいか?つまりターゲットが想定できていないと、いい物は書けない。伝わるものは書けない。と言った人がいた。

ここに書いたものを他の媒体を使って宣伝することはどうなのだろうか??

わたしは恐らくまだ自分の根底にあるものが何なのかを、はっきり捕えられてないと思う。

そう思う以上は、その相手方に伝わる努力をするのは違うんだと思う。


オチを決めずに書き始めたものだったが、結局のところ着地点はこんな場所になった。

まるで自分の年齢と同じように、中途半端なものになったし、おまけに相手方には届けないほうが良いと判断した場合、こんな長さのものを書いた時間は無駄になり、果たしてこれを note上で公開するかどうかさえも悩むところであるが、自分はまだ中身が現代にあわせて、アップデートが出来てないのだろう。とりあえず書いたものは公開してしまおうと思う。

果たしてこれは技量の無さと言えるものなのだろうか?

それとも、そもそもの人間性に問題があるのだろうか?

それがわたしには分からない。


こんなことをしていても、本当に何も意味がないので、他の気分転換が計れるものを探したほうが自分にとってはずっと良い。

・・・という言葉が出たところで、自分の身勝手さが露呈してしまったと思う。

これを書いたことはエックスの本垢に投稿はするけど、相手方に届くエックスの別垢には書かないでおこう。

それで身の安全は担保されたと思う自分は、浅はかなのだろうか?

内心の自由とは果たして何なのか?

そして憲法で保障されているはずの幸福追求権、つまり何を思ってもそれは人の自由だとされてるはずの文言とは何なのか・・・そうしたものをはっきりとした形で、綺麗な形でのアウトラインを描けないままで、アウトプットしてしまう自分とは何なのだろうか。


内心の自由を使って書くと、いま自分はつらい状況にあるとしか書きようがないのだが、それ以上のことを書くと何について書いてるのかがバレてしまうので、書かないようにしようと思うが、ひとつだけ。

ラニーノーズの件があって、本当に良かった。

あれは何というか、これまた相手方のことを気付かうと何も言葉が出てこないのだが、少なくとも。

自分も同じようなことをしでかしてしまいそうになっている今の現状に対して歯止めを効かせてるのは、あの一件何だと思う。

わたしは炎上を求めていない。






これでだいたいだいたい4,000文字に到達した訳だが、いったいどれだけの時間を費やして、これを書いたのか覚えていない。はっきり言えることは、時間の無駄だったということだ。

はぁ・・・俺の10万円。


別にいいんだけどね。

他のことに取り組もうと思う。




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