今日、内示がでた。

今日、内示がでた。
営業から、なんちゃらデジタルなんちゃら部という、要はデジタルを扱う新設部署に異動になった。

僕は営業が嫌いだった。

履き慣れない革靴が嫌いだった。
ワックスで前髪をあげるのが面倒だった。
営業車の運転が苦手だった。
取引先への電話が慣れなかった。
理屈の通じない取引先が嫌いだった。
仕事のスケールの小ささが嫌いだった。
そんな仕事さえ満足に頑張れない自分が嫌いだった。

         ◇◇◇

僕は就職で苦戦した。

インターンでは結果を残し、メンターとも連日連絡をとっていた会社もあっさり落ちた。
志望していた業界の最大手は最終であえなく落ち、受かったのは業界では新興の、小さい会社ばかりだった。
インターンが順調で、内定も同期で1番早く貰えていた僕の自尊心はへし折られた。
共に就活を戦った仲間はどんどん第一希望かそれに近い企業の内定を得ていく。
こんなはずじゃないこんなはずじゃないと、6月以降もずるずると就活を続け、結果数社から内定はあったが、夏には全て蹴っていた。
羞恥心に近いプライドが群れることを良しとせず、周りにも殆ど相談できなかった。
李徴を虎に変えた臆病な自尊心が自分を苦しめた。

         ◇◇◇

周りの同級生にとっては最後の夏休み、卒業旅行でトルコに行った。

カッパドキアで気球から朝日を見た次の日の朝、ある会社から夏期採用の最終面接の案内が来た。
興味のある業界の大手で、ビジョンに共感できる企業だった。
ここが駄目だったら今年の就職は諦めようと思っていた、最後の砦だった。
その会社は春に一次であっさり落ちていた。

僕は細い蜘蛛の糸にしがみつく思いで帰りのフライトを予約した。到着は面接の前日だ。
貯金は尽きていたので父親から飛行機代を貰った。

次の日の夕方、カッパドキアからジョージアを目指す仲間に別れを告げ、僕は空港に向かった。
空港までの高速バスから見た夕陽がやけに赤かった。

帰りの飛行機はオーバーブッキングで席が足りず、僕の前にキャンセル待ちの日本人が4人並んでいた。
列に並んだ人たちはみんなソワソワしていたが、この便で帰れなければ面接に間に合わない僕は一際気が気じゃなかった。
一人一人に半泣きで懇願し、順番を譲ってもらい、なんとか飛行機に乗ることができた。
飛行機が飛び立った後、景気づけようと思ってワインを頼んだが全く酔えなかった。
ここまで来て落ちるわけにはいかない。何度も何度もそう思った。

面接官に、最後に何か伝えたいことはありますか、と聞かれた。
与えられた仕事は何でもやります、どんな手段を使っても成果を出します
と、飛行機で考えていた言葉を伝えた。最後はやる気を伝えるのが何よりも大事だと信じていたし、実際なんでもやる気だった。
もし入社できたらどんな泥でも啜ってやる。
僕の答えを聞いて少し考えた面接官が
どんな手段を使ってもって言ってたけど、例えば?と聞かれた。僕は何も出てこなかった。
結果はあっさりと落ちた。

         ◇◇◇

留年した一年は研究室にも殆ど行かず、料理をしたり本を読んだりと気ままに過ごしていた。

就職留年をした末、二度目の就活でもやっぱり希望最上位の会社は落ちて、今の会社に拾って貰った。
去年の夏にトルコから受けにきてあっさり落ちた会社だった。おかしな運命だ。

配属は営業。
正直なところ向いている気はしなかった。
というのも僕は吃音だった。

         ◇◇◇

人前で言葉がつまる。つっかえる。どもる。
それを回避しようとして、本来言いたい言葉と別の発音しやすい言葉を選んでしまう。
幸いきついいじめに遭う事はなかったが、恥ずかしさや屈辱で潰されそうになったことは無数にある。

就活の面接では緊張で特に酷かった。
どもりを隠すために、必死で流暢に話そうと意識しすぎて自分でも何を言っているかわからなくなってくる。
本当に伝えたいことが発音できない。
たくさん考えてきた思いや、自己PRが伝えきれない。
悔しかった。
大学時代は専攻の建築で入賞し、起業を経験し、ボランティアで海外で小学校を作った。帰国子女でどちらかといえば頭も悪くないはずだった。
理屈だけでいえば就活など苦労しなそうだし、周りからもそう言われていた。
(今考えると少し違うのだが)全ては自分のどもりのせいだと思い、自分の障害を心底呪った。

そんなこんなでやっとのこと入れた会社では、よりによって多くの人とのコミュニケーションが求められる営業職だった。
やる前から苦手なことがわかっていて、好きでもない仕事をやるのは気が重かったが、この会社に拾ってもらったという意識も強く、やれるだけやってみようと思った。

         ◇◇◇

およそ2ヶ月にも及ぶ研修はzoomでサボろうと思えばいくらでもサボれたが、僕には野心があったし掬ってもらった恩義があった。
講演は相手が役員だろうが若手社員だろうが必ず質問した。
個人ワークの発表も手を挙げた。結果は酷かった。焦れば焦るほど早口になり、何を言っているのか自分でもわからなくなり、クーラーの効いた自分の部屋で一人汗をびっしょりかいた。
それでも次の回でも絶対に手を挙げた。
頑張ることだけが自分の取り柄だと言い聞かせた。

そんな研修でのでしゃばりの甲斐あってか配属は全国転勤がある中幸いにも本社勤務で、任ぜられた部署は優しい人ばかりだった。
担当の取引先も不条理な注文をつける人もおらず、仕事は思いの外やりやすかった。
上司は適度な難易度の目標を与えてくれ、挑戦をさせてくれた。
OJTは優秀で面倒見が良かった。
決して要領のよくない僕に皆快く教えてくれた。
居心地はよかった。恵まれた環境だったと思う。
しかし、今の仕事に違和感を感じない日はなかった。

成果が出ても自分の力で成し遂げた気がしなかった。褒められても嬉しさより恥ずかしさが勝った。
根底にあるのはもしかしたら、自分は向いていない、自分が輝くのはここじゃないという、ありがちでダサい思い込みのせいだったのかもしれない。
頑張りたいのにうまく頑張れなかった。下がったモチベーションの上げるのに、"頑張る"は無力だった。
営業の出世ルートに興味が持てず、転職や部署異動の希望ばかり頭にちらついた。

         ◇◇◇

そんな矢先に異動が出た。
正直なところ嬉しかった。
初期配属からまだ半年で、当然ヒラのままだが僕にとっては大栄転だった。

ただ、心に引っかかることがある。
自分は営業という仕事にきちんと向き合えたのかといえば、正直そんなことはなかった。
他の同期より努力したと胸を張って言うことができないまま去るのが、逃げたようで少し恥ずかしい。
そのせいで周りにおめでとうと言われても上手な笑顔で返せない。

僕はもう営業に戻ることはないかもしれないし、ひょっとしたら1年後にはまた背広を着て客先を飛び回っているかもしれない。
決して自分からやりたくはないが、もしもう一度営業に戻ることがあったら、次は後悔のない仕事をしたい。
そのためにまずは、次の部署で頑張る。
頑張るという言葉はとても馬鹿みたいだが、とにかく頑張る。

         ◇◇◇

僕のここニ年ほどの話の中に、結論はない。
結局どこに行っても何かに悩んでいるし、うまくいかないことだらけだ。
その中で僕が学んだ事は、うまく出来なかったことよりも、頑張れなかったときの方が後悔するということだ。
スヌーピーだって配られたカードで勝負するしかないと言っていた。
僕は僕に配られたカードで、これからも頑張る。

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