夢の種1

並行世界への憧れはどこから来るのだろうか。

加藤夢三は東浩紀のクォンタム・ファミリーズから

「さまざまに張り巡らされたコンピュータネットワークの中に「この私」のアイデンティティが無数に拡散する情報社会において「私」はほんとうに〈いま・ここ〉に存在しているのだろうかという問いは、きわめて切実なアクチュアリティを喚起するものとなっている。」

と論じた。これは実生活でも確かに確認できる事であろう。21世紀の直前から大きく発達したインターネットにおいて、私たちは誰とでも繋がれるようにはなったが、その繋がりの強度は著しく低下しただろう。それに加えて各種SNSの台頭により、この私としか表現できない存在の曖昧さが、Twitterでの私、Instagramでの私、LINEでの私、などというように分裂し、ヴァーチャルなはずのインターネットから現実の側へと侵食してきた事によって、加速しただろう。

この曖昧な「私」と「現実世界」の関係性は、柄谷行人が探求IIの単独性の概念において論じたように、「私」が「「ここにいる」という現実性は、あそこにいるかもしれないという可能性のなかではじめて在る」という「この私」に関する考究から、「現実世界」が「「こうである」という現実性は、こうであった(なかった)かもしれないという可能性のなかではじめて在る」と言い換える事ができるだろう。

つまり、〈いま・ここ〉を生きている事の実感が湧きにくい私たちにとって、並行世界という舞台装置は反実仮想の「こうでなさ」を呼び起こすものとして強い引力がある。

(しかし問題もあり、この考究では現実世界の特権性を無視している。現実のかけがえのなさへと回帰するための装置として、並行世界が用いられている事に注意したい。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?