見出し画像

『熱、諍い、ダイヤモンド』書評

評者:札幌厚生病院病理診断科 市原 真

そもそも私の心の中にはニヒリズムがあった。「日本に住む私が今さらエボラから何を学べるのか?」と。今あえてエボラ? 専門科をまたぎ,国をまたぎ,文化や人種をまたいだ別世界の話ではないのか? 緒言をめくり,本文をしばらく読み進めてもなお虚無に浸っていた。帯には「コロナ問題を考える上でも役に立つ」という惹句が踊る。まあ,そのへんがモチベーションのコアになるんだろうな,くらいの緩やかな滑り出しで読み始めた。
しかし,50ページだ。
50ページほど読み進めたあたりで,首の後ろが熱くなってきた。
「エボラに関する本や論文がたくさんあったとしても,その洞察が治療の改善に結びつかなければ意味がない。研究や教育だけで,ケアが提供される空間をどのように改善できるのか? 個人防護具,医薬品,臨床サービスに必要な検査試薬などの在庫切れをどのようにして解消するのか? 病人を診る臨床医が不足していることにどう対処すればいいのか?」
いや……まあ,そうなんだけど。一介の医師が,やれる? それはもう行政とか財団のやることなのではないか? 私の戸惑いをよそに,ポール・ファーマーはまっすぐに指摘する。
「世界中の公衆衛生界では,『優先すべきは封じ込めであり,臨床サービスを提供することではない』という,おなじみの不確かな論理が蔓延していた。これは臨床的ニヒリズムである。」(53ページ)

本書は3部構成だが,特にPart I「エボラ襲来」の50ページ以降はまさに一気読みである。拍手喝采,苦難と悲運,しんどい,おもしろい,ちきしょう,ごめんなさい,本当に救いは何もないのかよ。エボラに対する偏見と無知を恥じながら肉厚の物語を最前列でかぶりつきで読む。ソーシャル・ディスタンシングによる感染予防「のみ」で政策的医療の責任をおしまいにしようと目論む古き良きパスツール的公衆衛生にポール・ファーマーの大鉈が振り下ろされる様は圧巻だ。シエラレオネの肉声が,硬質な「私ノンフィクション」的文体で迫る。しかし,それもまた本書の一部でしかない。
医学博士であると同時に文化人類学博士でもある(とんでもない人だ)ポール・ファーマーは,西アフリカの搾取と隷属の歴史を,Part IIのまるまる200ページをかけて一切の妥協なしに書き殴っていくのである。なんたるハイカロリー。
 「シエラレオネは,反政府戦争以前から,乳幼児死亡率が最も高い国の1つであり,1人あたりのメルセデス・ベンツ車の所有率が最も高い国の1つでもあった。」(353ページ)
 熱,諍い,ダイヤモンド。
 「顕微鏡のレンズだけで見ている限り,このようなさまざまな要因は見えてこないし,実際に見えるはずもない。エボラの病原性の中心が,治療して失敗したのではなく,治療することに失敗していたとしたらどうだろうか?」(380ページ)
 ケアから目が離せない。
 「ここ数十年,説明変数として『文化』が前面に出てきている。(中略)伝染病で多くの死者を出した地域に伝わる奇妙な儀式や習慣が,攻撃や死亡率の違いの原因であると主張した。エボラの時代になって,このようなアームチェア人類学者の民間理論がルネッサンスを迎えた。」(410ページ)
 爽快を通り越して寒気が止まらない。古さは,新たな新しさなのだ。私たちは,臨床的な耐久性を超えた何かを知り,備える。ポール・ファーマー以降の世で,医師であり続けるために。
(「J-IDEO」2022年5月号:J-IDEO 2022 ; 6(3)より)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?