特集・表現の不自由展 東京2022 東京で無事開催を実現したものは

放送レポート297号(2022年7月)
岡本有佳 編集者、表現の不自由展・東京共同代表

鑑賞者の反応から

 「国立市で不自由展が開催され、私は市民として誇りを持つことができ、感謝です」
 これは2022年4月2~4日、東京・国立市民芸術小ホールのギャラリーで開催された「表現の不自由展 東京2022」(以下、不自由展)の鑑賞者が貼った付箋の1枚だ。会場出入口に感想付箋コーナーを設置したところ、来場者約1,600名のうち実に750名以上の方が付箋を貼ってくれた。
 その中で最も多かったのは、「なぜこれらの作品の展示が規制されるのか」「この程度の表現を規制しようとする社会には恐怖を覚えます」というもので、日本での検閲・規制の状況を可視化するという本展の狙いを鑑賞者が受け止めていることがわかる。
 これと同数だったのは、《平和の少女像》にやっと会えたという感想だった。「少女像がふつうに街にある光景を見たい」「隣に腰かけたら涙がとまりませんでした」「少女の痛みは全女性の痛み」「実際に出会わなければわからない」などの声が寄せられた。さらに作品を前に戸惑う声も。「少女像をまっすぐ見つめられなかった。じろじろ見られ、触られて、嫌な思いをしてきたのかもーと想像してしまって。でも、優しい顔の女の子だった。子どもが遊ぶ公園に置いてほしいな」。実際に見たからこその感想だった。
 次に多かったのが国立市に対する感謝だった。これは、開催2日前、国立市の考えをホームページで公表したことが大きいだろう。そこには〈アームズ・レングス・ルール(誰に対しても同じ腕の長さの距離を置く)〉の考え方で〈施設利用は、内容によりその適否を判断したり、不当な差別的取り扱いがあってはなりません〉と表明されていた。
 国立市は4月20日、再度、不自由展開催に関する考え方も公表し、〈反対する団体等により、多数の車両及び拡声器を用いた抗議活動〉について、〈市民の皆様に多大な心理的影響を与える手法については、受け入れられるものではありません〉。さらに大阪高裁、最高裁の判断にもふれ、〈公の施設の利用を拒み得るのは特別な事情がある場合に限られ、反対するグループ等がこれを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に利用を拒むことは、憲法21条の趣旨に反する〉としている。こうした見解を公表した市長に敬意を表したい。
 来場者約1,600名となったのは、コロナ対策で定員40名だったので、50分ごとの入れ替え制で夜8時、9時まで開催し最大の人数だった。入場希望者は溢れ、毎日、入場依頼がひっきりなしの状況だった。なお、4月6日は近隣の小学校入学式があり双方の協議で非公開の協力者内覧会としたので実際はさらに多くの人が見たことになる。
 無事に展覧会を開催するために何をしてきたのか、当事者として振り返ってみたい。
 私たちは展覧会が無事開催できるよう、のべ240人のスタッフとのべ70人の弁護士で臨んだ。施設と市職員の方々に加え、警官は目視で100名を超えていた。
 これだけの体制にしたのは、次のような経緯がある。招聘作家として参加した国際芸術展「あいちトリエンナーレ2019」(以下、あいトリ)では、私たち実行委員会(以下、実行委)と合意をしないまま主催者は、匿名の電話攻撃やテロ予告などを理由にたった3日で中止を決定した。観たかった! という声を支えに、2021年6月に民間ギャラリーで開催しようとしたが、またもや怒号妨害などにより、会場が使用を辞退し延期を余儀なくされた。その後、名古屋、大阪、京都でそれぞれの不自由展が開催され、大阪だけが全日開催を遂げた。これは大阪地裁が「エル・おおさか」の使用承認取消処分の効力停止を決定したからだった。
 このまま不当な暴力行為に屈してしまっては、表現の伝達と交流の場である展覧会が潰されてしまうという危機感から、昨夏より態勢を立て直し、7ヵ月間、120以上の会議をし準備を重ねた。

▲《平和の少女像》と《償わなければならないこと》が向き合う
▲観客の約半数が感想を寄せてくれた付箋コーナー

国立市を選ぶまで

 8月に入り、不自由展開催に向けた準備が始まった。まず弁護士グループを作った(7名でのちに地元の方が加わり10名)。次に、民間か公共施設かを議論し、公共施設でいく方針となった。民間施設では警察警備が全く力にならないこと、また、大阪の成功をみた私は表現の自由の場、公共の場は私たち市民や表現者で守るという大切な取り組みだと改めて認識したことが大きかった。
 都内の公共施設を洗い出し、面積や設備はもちろん、複合施設か否か、周辺の環境、行政、地域の市民たちに協力を得られるか否か、申請方法の煩雑さなどを検討し、下見もした上で国立市民芸術小ホールのギャラリーを申し込むことにした。
 ここでとりわけ重視したのは、地元で協力する市民の存在だった。国立市ではさまざまな市民活動が活発でネットワークを作る素地があったこと、また、「不当な差別及び暴力を禁止」する「国立市人権を尊重し多様性を認め合う平和なまちづくり基本条例」も制定されていたことも市の姿勢として評価できた。
 いよいよ9月28日、施設申し込みの日、弁護士とともに共同代表2人(岩崎貞明氏と私)で申し込みに行った。緊張していたが、何事もなく申請は完了し、利用料を支払い領収書をもらった。ところが10日ほどのち、館長から電話が入り、面会を求められた。当日は気づかず、後から大騒ぎになったという。もちろん面会に応じると答え、10月20日、池袋の喫茶店で会うこととなった。

三者協議の継続の力

 ここから、施設側との協議が始まった。メンバーは不自由展側は共同代表2名、弁護士(田場暁生氏、李春熙氏)2名、施設側は館長と財団事務局長。そこで開口一番に言われたのは、「大阪で使用承認を取り消して裁判になった例も把握している。法的には取り消しができないことは承知している」ということだった。スタート地点が変わった!と私は思った。
 しかしそう言いつつも施設側は「小規模な自治体、本会館では対応能力がない。取り消しをお願いできないか」と続けた。実行委としては、施設側に負担がかかるなど懸念は理解できるが、他の地方の事例をみても十分に対応可能で、協力して対応していきたいと答えた。
 その時、私たちが懸念していたのは、施設・行政側が一方的に利用中止を決定することだった。そこで施設責任者、国立市の行政担当者との協議を求め、ともに準備を進める姿勢を保持しようと考えていた。実際、2回目の協議後の2021年末には教育委員会としては、他の利用者と同じように「貸し館」業とするとし、事実上の協議打ち切りを持ち出された。私は具体的な不安に対し双方で協力して対策を立てない限り失敗する、実質的な利用拒否とみられても仕方ないなどと館長を説得。なんとか協議は継続することとなったという顛末もあった。
 こうして再開した1月18日の協議にはようやく教育委員会生涯学習課長らが参加。毎回議事録を双方で確認のうえ共有すること、施設側で計画書を作成し、これに対する実行委側の意見なども次回までに準備することなどを合意した。 
 協議の中で施設側は懸念事項を複数あげてきた。整理すると主に次の6点になる。
 ①電話応対対策②妨害街宣対策③館内動線④手荷物検査⑤監視カメ
 この間、実行委でも対策はいろいろ検討した。最終的に出てきた施設側の2月27日付計画書に対し、2月25日付で以下の要望を出した。
 ①については、抗議・妨害の電話に対応する担当者が、事前の準備や研修もないままに事に当たることは心身に大きなダメージを与えることになりかねない。担当者の安全を確保するために、専門家による事前研修の実施を強く求める。事前研修の予算を捻出できないということなら、次善策として、表現の不自由展実行委員による事前研修の実施を提案する。対象は実際に電話対応するスタッフ。併せて、事前研修の実施までに「電話対応マニュアル」を作成してほしい。
 ③④については、ギャラリー利用者としての私たちは、ギャラリーへの入場者と出展作品・作家に対する責任は負うが、施設そのものについては、公共施設である以上、施設側に管理責任がある。施設入場者への手荷物検査は、プライバシーの観点からは望ましいことではないが、大阪、あいトリなどでも実施していた。施設の管理責任の一環として、動線を分ける前に、施設側が入館者全員に対し、手荷物検査を実施することを要望する。その際、鑑賞に不必要な大きな荷物は預かる、また傘やペットボトルを預かる場所を設けるなどしてほしい。なお、危険物の持ち込みについては、国立市の施設利用条例施行細則12条の禁止事項の2で危険物の持ち込みを禁じており、13条では〈委員会は危険物を持ち込む入館者を拒むことができる〉と書かれている。よって危険物の持ち込みについては、施設側の責任で執り行うべきと考える。
 ②については、警察警備マターとして立川警察署に協力を求めた(施設内・行政側と実行委側別々に)。警察と実行委の協議では、ホールの敷地を囲う形で壁を設け入口を1ヵ所に絞り、すべての来館者をそこに案内して施設側がチェックする案が提示された。
 ⑤はプライバシーの問題をはらむが、犯罪的事象が起きた際は記録映像は強力な証拠能力を有する。実行委でも映像撮影班を配置する予定。施設側の責任として防犯カメラを設置し、録画データは防衛のため主催者側も見られるようにしてほしい。その後、協議を重ね、①については残念ながら施設側は事前研修も当日メンタルケアも実施せず、最終的には外部にオペレーションを依頼したと聞いた。予算はないと言っていたが外注したのである。結果的には電話件数も予想をはるかに下回り大きなトラブルはなかったと聞いた。
 ③出入り口を1つにする警察案を採用し、そこに実行委の受付も設置、チケット購入者のみ入場してもらった。ただし、チケット購入には実行委側が作成した「禁止事項」に同意を前提とした。これは当日会場に貼り出しスタッフが注意喚起をする際にも役立った。④は施設側責任で行うことになり、当日は金属探知機と手荷物検査を警官が担当していた。⑤は施設・行政・警察側はギャラリー内の防犯カメラの設置と全データ提供を強く主張したが、議論の末、ギャラリーは利用者の責任で記録し、犯罪的行為発生時のみ証拠としてデータを提供することで合意した。防犯カメラ設置に関しては主催者側内部でも強い反対意見もあったが、犯罪的行為を記録する必要からの選択という苦肉の策だった。
 しかし、当日、警察はギャラリー内に警官を配置したり、警察のカメラ3台を施設に設置していたことが明らかとなり、実行委として強く抗議し、修正させた。また、告知を遅くするよう再三要求しながら、マスコミに情報を流していたことも発覚し、警察との関係に課題を残した。
 協議の中で残念だったのは、展覧会公表後に施設に攻撃があれば、施設側が「街宣禁止の仮処分」などを申し立てることが可能ではないかと、国立市側の弁護士との意見交換を再三申し入れたが叶わなかった。

脅迫行為はなかった

 実は2021年6~7月にかけて2ヵ月間、東京実行委に対し脅迫メールが続いたので、10月、警察に被害届を出した。警視庁は12月5日、兵庫県の会社員を脅迫容疑で逮捕したと発表した。今回、脅迫行為がなかったことの1つの抑止力になったと思う。
 当日の妨害街宣は土日に集中し、多い日で40団体と聞いた。平日は1~2台程度。右派の妨害街宣はマスコミ報道にゆずる。なお、不自由展を支持するスタンディングもあった。

▲不自由展を支持するスタンディングも行われた
▲入場を待つ観客の人たち。この待合も当日スタッフの知恵で実現

国立市民らの連帯

 こうした協議の一方で、10月から運営体制づくりが始まっていた。まず、不自由展のコンセプトを共有してくれるメンバーに声をかけ、国立市民らで「芸術展開催を実現する会」を作ることとなった。実行委と共同して運営にあたる。すでに出品作品がほぼ決定していること、予算管理の責任や裁判など法的手段に訴える際は主催である実行委が担うことを明確にするなどの意図からである。会議を重ねつつ、時期や施設が漏れないよう細心の注意を払いながら少しずつ協力依頼は進んでいった。
 当日は、防衛、受付、物販、スタッフの食事の手配からゴミ処理まで地元のメンバーがいなければとても実現できなかった。1日の開催時間が10~11時間と長いため、3交代で行った。受付の待合方法など現場では毎日改善が続いていた。途中、雨が降った寒い日にはとりわけ野外で防衛や受付に当たったメンバーには大変な負担をかけてしまった。

展示キュレーション

 表現の不自由展は、年表などで検閲事件を広く知らせ、検閲とその背景の政治/社会的問題を議論する場を創り出せればと考えている。そこであいトリで展示中止を強要された作家と作品たちと、それ以前から検閲や圧力と闘ってきた先達の作品を合わせて展示した(次頁表参照)。私たちは、あいトリでの中止事件の背景には、2021年に誕生した第2次安倍政権から推し進められてきた歴史修正主義があると考えている。
 実行委員の岡本羽衣さんが構成案を作成し、いちむらみさこさんらとともに設置・展示物作成に当たった。搬入搬出には作家の皆さんも協力いただいた。図録も販売中である(https://fujiyuten.base.shop)。

SNSでの情報発信

 もう1つ力を入れたのが広報活動である。年末から広報チームを約15名で結成し、クラウドファンディング(約340万円達成)も含め、開催1ヵ月前からSNSで毎日配信。これは観客に若者層が多かったことにも繋がったと思われる。

理不尽な負担ない開催を

 国立市に寄せられた苦情は数件だったが、中には、「怒号妨害で売り上げが減った」などとしつこく苦情を言ってくる市民もいた。もちろん原因は怒号妨害をする人たちである。この怒号妨害に対抗できるのは警察であり、マスコミ、社会ではないか。この点においても国立市が4月20日に出した見解は評価できる。
 今後、昨年途中で中止された名古屋の再開をはじめ不自由展を準備している地域がある。連帯し開催を実現したい。今回、たった4日間の展覧会をするために費やした時間と労力、費用を考えると、誰にでもできることではないと思う。こんな理不尽な負担なく開催可能にしなければならない。7月から梨の木ピースアカデミーで「表現の自由」は「差別の自由」じゃないと題した連続講座を開催するので深めていきたい。

表現の不自由展 東京2022 【出品作家】 [作家50 音順]

赤瀬川原平《大日本零円札》1967年
安世鴻《重重ー中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち》 2012年
イトー・ターリ《Self-portrait1996》1996年、《ひとつの応答-ペポンギさんと数えきれない女たち-》 2011年
大浦信行《遠近を抱えて》1982-85年
大橋藍《アルバイト先の香港式中華料理屋の社長から「オレ、中国のもの食わないから。」と言われて頂いた、厨房で働く香港出身のKさんからのお土産のお菓子》 2018年
キム・ソギョン+キム・ウンソン《平和の少女像》 2011年
小泉明郎《空気 #18》2022年
白川昌生《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》2015年
趙延修《償わなければならないこと》2016年
豊田直巳《叫びと囁き フクシマ・避難民の7年間の記録と記憶》2011-18年
永幡幸司《福島サウンドスケープ》2011-19年
前山忠《反戦》シリーズ1971年
マネキンフラッシュモブ(路上パフォーマンス)
丸木位里+赤松俊子(丸木俊)《ピカドン》1950年
山下菊二《弾乗りNo.1》1972年
作者非公開《九条俳句》2015年

表現の不自由展出品作品 検閲年表

表現の不自由点出品作品 検閲年表

*表現の不自由展公式HPに詳しい情報が掲載されている。

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