玉音放送までの「日本のいちばん長い日」、タイムラインが物語る「戦争を終わらせる難しさ」

8月15日は79回目の「終戦の日」だが、日本がポツダム宣言の受諾を最終決定したのは、玉音放送の1日前、昭和20年(1945年)8月14日の正午過ぎのことだった。昭和天皇(1901~89)の2度目の「聖断」でようやく決着したのだが、玉音放送が流れるまでの1日間は、薄氷を踏むような状況が続いた。

戦後79年、「半藤史観」では“2世代交代”

 作家の 半藤はんどう一利かずとし (1930~2021)はその 顛末てんまつ を克明に調べ、『日本のいちばん長い日』に記している。「近現代は40年周期で興廃を繰り返す」という半藤の「40年史観」によると、明治38年(1905年)の日露戦争勝利で頂点に達した日本の軍事力が、落ちるところまで落ちたのが終戦の日だった。

 昭和27年(1952年)に再独立した日本は、国の発展基盤を経済力に切り替え、40年後の平成4年(1992年)にバブル景気で経済的繁栄の頂点を迎えた。今の日本はそこから40年続く没落のさなかにいることになる。

 半藤は周期を40年とした理由を、「世代が入れ替わる期間が40年だから」と説明している。だとすれば、悲惨な戦争を知る世代の入れ替えは、来年で2回目が終わる。悲惨な戦争を体験した世代だけでなく、その世代からじかに悲惨さを聞いた世代も、間もなく社会の中心から消えていく。半藤が玉音放送までの1日を調べ上げたのは、時代の節目の記録を引き継ぐことが、いずれ消えゆく世代の責務と考えていたからかもしれない。

 「日本のいちばん長い日」は「日本がどん底を迎えた日」でもあった。その日に何が起きたのかを知るには、そこに至る半月前からのタイムライン(時系列)をたどる必要がある。

鈴木首相のポツダム宣言「黙殺」、米国は「拒絶」と解釈

 昭和20年、戦局は絶望的になっていた。戦艦大和が撃沈された日に首相になった鈴木貫太郎(1868~1948)は、自ら戦争を終わらせる決意を固めていた。7月27日に米、英、中華民国が発したポツダム宣言に対して当面は「静観」の姿勢をとったのは、当初発出国にソ連の名前がなかったためだ。鈴木はソ連による仲介和平にいちるの望みをつなぐ。

 本土決戦の準備を進めていた陸軍が「『静観』では弱腰に過ぎる」と突き上げ、鈴木は「黙殺」という言葉を使わざるを得なくなった。米国は「黙殺」を「拒絶」と解釈し、これが原爆使用やソ連参戦の口実に使われることになる。ポツダム宣言の内容を知った昭和天皇は、外相の東郷茂徳(1882~1950)に「これで戦争をやめる見通しがついた」と述べていたにもかかわらず、戦争終結への動きはなかった。

「国体の護持」の条件で指導会議は紛糾した

 一気に動き出したのは、広島に原爆が投下され、ソ連が日ソ中立条約を破って日本に参戦した8月9日からだ。ソ連を仲介者とする和平の望みを絶たれた日本政府は最高戦争指導会議を開き、「仮に」ポツダム宣言を受諾する場合、どんな条件をつけるかを議論した。

 ポツダム宣言は「国体の護持」、つまり天皇制の維持について、明確に方針を示していなかった。東郷と海相の米内光政(1880~1948)は受諾の条件を国体護持のみに絞るべきだと主張した。だが、陸相の 阿南あなみ惟幾これちか (1887~1945)と参謀総長の 梅津うめづ美治郎よしじろう (1882~1949)は、さらに「戦争裁判に日本代表を加える」「武装解除は日本側が自発的に行う」「占領の地域、兵力、期間を限定する」の3条件をあげ、受け入れられなければ本土決戦あるのみ、と主張した。

 会議の最中に長崎に2発目の原爆が投下されても対立は解けず、2度にわたる閣議や御前会議でも、1条件派と4条件派の議論が延々と続いた。10日午前2時、鈴木は昭和天皇の「聖断」を仰ぐ。鈴木は9日朝に内大臣の木戸幸一(1889~1977)を通じて聖断による収拾案を上奏し、会議前には天皇と打ち合わせていた。

 昭和天皇は、「私は外務大臣の意見に同意である」と聖断を下し、「陸海軍の計画は常に錯誤し時機を失しており、本土決戦はもはや不可能である」とも付け加えた。阿南ら陸軍の主張は明確に否定された。阿南が本心から終戦に反対なら、この時点で陸相を辞任すれば鈴木内閣を総辞職に追い込めた。そうしなかったのは、終戦やむなしと考え始めていたからだろう。

 10日には内閣情報局総裁の下村宏(1875~1957)が、遠回しな表現ながら「終戦は近い。死に急ぐことがないように」と国民に訴える談話を出したが、阿南はそれを打ち消すかのように、「今こそ敵を撃滅せよ」と全軍に布告している。あえて陸軍内の抗戦派に同調する姿勢を見せ、抗戦派の暴発を抑えようとしたとみられる。

昭和天皇「阿南よ、もうよい」

 聖断を受け、政府は「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は包含し 居お らざる(含まれていないとの)了解のもとに」ポツダム宣言受諾を連合国側に伝えた。12日夜に米国から届いた回答には、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官の制限下に置かれる(subject to)」「最終的な日本国の政府の形態は、日本国民の自由に表明する意思により決定される」というものだった。

 「最終的な政府の形態は……」の一文はポツダム宣言の文言と同じで、天皇制の廃止にはこだわっていないことを示唆している。さらに踏み込んで天皇制の維持を約束すれば、「無条件降伏させるべきなのに、なぜ譲歩したのか」と米国が批判されかねなかった。だが、日本側から見ると、占領中に天皇制をつぶされてしまう恐れがぬぐえない。外務省はsubject toを「制限下に置く」と精一杯穏当に訳したが、大本営は独自に「 隷属れいぞく する」と訳し、陸軍は「国体護持はまったく保証されていない」と反発した。

 昭和天皇は13日の最高戦争指導会議の直前、国体護持を心配する阿南に対し、「阿南よ、もうよい。私には(国体護持の)確証がある」と語っている。だが、一方で陸軍内部では、徹底抗戦を主張する若手将校らがクーデター計画を練り上げ、そのトップに阿南を担ごうとしていた。

 若手将校の動きを警戒した軍幹部は、計画決行には阿南、梅津と東部軍司令官の田中 静壹しずいち (1887~1945)、近衛師団長の森 赳たけし (1894~1945)の4将軍の一致が必要、という条件をつけた。若手将校らから計画の説明を受けた阿南が賛否の回答を14日朝まで遅らせたのは、計画で午前10時とされていたクーデター発動の直前まであえて態度を明確にしないことで、将校らの暴発を抑えるためとみられる。阿南は14日朝に梅津と会談し、クーデター反対で一致した。クーデター発動の3時間前、紙一重で計画は葬られた。

「これ以上戦争を継続することは無理」と2度目の聖断

 若手将校はなおあきらめず、兵力動員計画を練り直し阿南を説得しようとした。しかし、鈴木と木戸は、早くても14日午後とみられていた御前会議を午前11時前から開いた。

 昭和天皇はその席で、涙を拭いながら「私の考えはこの前申したことに変わりはない。これ以上戦争を継続することは無理と考える」「わたしが国民に呼びかけることがよいならいつでもマイクの前に立つ」と、2度目の聖断を下した。終戦の流れはもはや覆せなくなった。

 この日の早朝、米軍機が「日本がポツダム宣言を受諾」という宣伝ビラをまいたことが木戸の耳に入ったため、木戸はもはや一刻も猶予できないと考え、急きょ御前会議を招集したという。鈴木や木戸は陸軍若手将校の不穏な動きをまだ知らなかったが、結果的に陸軍抗戦派の機先を制した形となり、抗戦派は追いつめられていく。

 御前会議から陸軍省に戻った阿南は幕僚たちに「聖断は下ったのである。不服の者は自分のしかばねを越えてゆけ」と、抗戦派に 与くみ しない姿勢を明確にした。午後3時には陸軍省で「過早の玉砕(自決)」を戒める訓示をしている。いつもの「われわれは」ではなく「諸官においては」と切り出した阿南の訓示を聞いて、多くの将校は阿南が自決する気だと知り、命がけで戦争を終わらせようとする阿南に従っていった。

 阿南は終戦の詔書を決める閣議でも、原案の「戦勢日に非にして」という文言を「戦局好転せず」と改めるよう強硬に主張し、原案のままでよいとする米内海相と対立している。戦局悪化のためではなく、たまたま良くないから降伏するのだ、と読めるようにして、戦場の将兵の責任ではないことをにじませようとしたのだ。

 米内は「戦局悪化は事実ではないか」となかなか折れなかったが、所用のため閣議を中座して向かった海軍省から戻ると、一転して阿南の主張を受け入れた。海軍省で「終戦に不服な将校が暴発し、米内暗殺を企てている」という情報を耳にしたためとみられる。2度の聖断にもかかわらず、一触即発の状況は陸軍以外でも続いていた。

クーデターの成否分けた録音盤の保管場所

 多くの抗戦派将校の決意が揺らぐ中、畑中健二少佐(1912~45)は、なお近衛師団が天皇を擁して 宮城きゅうじょう に立てこもれば、阿南は翻意すると考えていた。畑中は井田正孝中佐(1912~2004)に森師団長を説得させ、阿南の義弟、竹下正彦中佐(1908~89)に阿南の説得を依頼する。井田と竹下はクーデターは成功しないと考えていたが、説得に応じなければ決起はあきらめるという畑中の熱意に負けたのだ。

 ところが井田が森の説得に手間取ると、畑中は自ら近衛師団に出向いて森を射殺し、師団長の命令書を偽造して師団を乗っ取った。「すでに4将軍は同意している」と近衛師団連隊長をだまして味方につけた。14日深夜の終戦の玉音放送の録音に立ち会った下村情報局総裁や日本放送協会会長の大橋八郎(1885~1968)を軟禁し、ニセ命令やうそがばれないように連絡用の電話線も切断。録音盤を奪って玉音放送を阻止するため宮内省を捜索した。

 録音盤は徳川義寛侍従(1906~96)が皇后宮職事務官室の軽金庫に納めていた。天皇関連の貴重品が皇后関連の部屋に納められるのは通常ならあり得ない。徳川侍従はクーデターを予期していたわけではない。徳川侍従の頭に浮かんだ手ごろな保管場所が、クーデターの成否を分けたともいえる。

ウソがばれ、反乱軍はたちまち瓦解

 陸相官邸を訪れた竹下は決起を説得することもなく、阿南と最後の杯を交わし、自決を見届けている。畑中が森を殺害したことを竹下から聞いた阿南は、「そうか。このおわびもいっしょにすることにしよう」と言い、割腹して果てた。敗戦の責任をとった自決だったが、阿南は抗戦派将校の主張に理解を示し、クーデター計画が進んでいることを知りつつ、積極的に止めなかった。暴発を抑えるためだったとしても、結果的に暴発が起きてしまった責任を強く感じていたのではないか。


 田中東部軍司令官が夜明けとともに宮城に乗り込み、ニセ命令やウソがばれると反乱軍は瓦解し、事件は一気に収束していく。畑中は宮城から放送会館に移り、自分たちの主張を放送するよう求めるが拒否され、徹底抗戦を訴えるビラをまいて拳銃自殺した。



 畑中ら反乱軍の行動に対する支持は最後まで広がらず、反乱軍に手を貸した井田や竹下もクーデターは成功しないと確信していた。計画も稚拙で、「宮城事件」と呼ばれる反乱は終戦の日の小さな暴発という評価しか受けていない。


 しかし、それでも反乱軍は一時宮城や放送局を占拠し、多くの政府要人を監禁した。畑中らとは別に、「国民神風隊」を名乗る東京警備軍横浜警備隊の小隊が首相官邸で機関銃を乱射し、鈴木首相は間一髪で難を逃れ、枢密院議長の平沼騏一郎(1867~1952)宅も放火されて全焼した。玉音放送が流されたスタジオは放送の30分前にも、警備兵を装った将校に襲われている。クーデターの成否にかかわらず、玉音放送が遅れたり、数分間でも反乱軍の主張が放送されたりしていたら、米軍がどんな動きに出ていたかわからない。


 昭和天皇が2度も聖断を下し、阿南が命をかけても、暴発を完全に止めることはできなかった。「日本でいちばん長い日」の顛末は、戦争を終わらせるのがいかに難しいかを教えている。


主要参考文献
半藤一利『日本のいちばん長い日 決定版』(2006、文春文庫)
読売新聞「昭和時代 第4部 敗戦・占領・独立(1945~54年) 第8回 終戦(上)」(2014年4月19日朝刊)


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プロフィル

丸山 淳一( まるやま・じゅんいち )

 編集委員。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞調査研究本部総務などを経て2022年6月より現職。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生で大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場を巡り、歴史書を読みあさり続けている。