毒蝮さんの空襲体験、戦争の「記憶」をどう引き継ぐのか

終戦の日の前日、8月14日、読売新聞朝刊の戦争企画「戦後76年 刻む つなぐ」で俳優の毒蝮三太夫さん(85)の空襲体験を取り上げたところ、読者からメールや電話、手紙で様々な感想が届いた。東京大空襲で家を失った男性、上野駅の戦災孤児に思いをはせる女性など、あの戦争の記憶がよみがえったようだ。戦争の終結から3世代を経て、体験者が証言できる時間もそう長くはない。あと、30年もすれば、関東大震災のように、活字や映像、展示品でしか伝えられない「歴史」となってしまうだろう。その前に、私たちは何をすべきなのだろうか。

B29が500機 母に手を引かれ高台に避難

 毒蝮三太夫さんは1945年5月24日、9歳の時に、東京・ 荏え原ばら 区(現品川区)で、500機もの米戦略爆撃機B29の空襲を受け、九死に一生を得た。 焼しょう夷い弾だん で炎を上げる家々を縫うように避難する途中、あまりの熱さに「かあちゃん。こんなに苦しいんなら、死んだ方がましだ」と叫んだという。手を引いていた母親に「死ぬために逃げてんじゃない。生きるために逃げるんだ」と 叱しっ咤た され、ようやく安全な高台にたどり着くことができた。

 戦後の人生も波乱万丈だ。連合国軍総司令部(GHQ)の指令で始まった、戦災孤児が主人公の「鐘の鳴る丘」で舞台デビューし、芸能の道へ。特撮映画のレジェンドとなった「ウルトラマン」「ウルトラセブン」に隊員として出演し、人気者になった。その後も、俳優やラジオのパーソナリティーとして活躍している。ラジオでは、「ジジイ、ババア、元気か」と毒舌を吐きながら、あの戦争のことをお年寄りたちと語り合う。

 読者からは、「空襲体験、鐘の鳴る丘、ウルトラマン、そしてコロナ禍と話がつながっているところがすごいと思った。『社会問題を語らない社会派』だったんですね」(50歳代の男性)、「疎開していたが、東京の軍需工場に勤めていた父に弁当を持っていくことがあった。あの日、途中で具合が悪くなり下車しなければ、毒蝮さんと同じ空襲に遭っていた。自分が今、生きていることを感謝しながら読んだ。上野の戦災孤児はどうなったのでしょうね」(88歳の女性)などの声を頂いた。記事が転載されたヤフーを見ると、コメントは40本近かった。毒蝮さんの知名度、そして親しみやすい人柄もあり、同世代のみならず、若い世代の関心も呼んだようだ。

教え子送った満蒙開拓青少年義勇軍 野獣の群れだった

 記者は戦後50年の節目に当たる1995年にも、当時、赴任していた福島支局で、「50年目の証言 それぞれの戦場」という戦争企画を担当した。

原爆の原料となるウラン鉱石を掘っていた男性、
中国東北部に集団移民した満蒙開拓青少年義勇軍に教え子を送った元高等小学校教師、
中国の上海攻略戦で、捕虜を機銃掃射した現場に居合わせた元陸軍小隊長――。

 未成年の男子ばかりの満蒙開拓青少年義勇軍に送られた教え子は、現地の不条理な状況に絶望し、口に当てた銃の引き金を引いた。教え子と手紙のやりとりをしていた元教師の話は 凄せい絶ぜつ だった。「人間の集落は子どもがいて、老人がいて、女性がいて成り立つ。若い暴れ者ばかりの開拓団は、鬼の部隊のようなもので、生活がすさみ、人が野獣化してしまった。終戦の日には、教え子を死なせた責任をとって、腹を切ろうとも思った」

 当時の紙面を見ると、年齢は皆、80歳代半ば。体調不良を理由に、インタビューの日程をずらした人もいた。あまり意識していなかったが、1990年代というのは、戦争時には壮年期だった当事者の、生々しい体験を紙面化できるタイムリミットに近かったのかもしれない。

体験・証言・記憶 三つの局面

 ここ6年ほど、戦争企画を取材する機会が増えた。NHKの連続テレビ小説「エール」でおなじみの作曲家、古関 裕ゆう而じ (1909~89)の長男の正裕さんや、その古関が作曲した「長崎の鐘」のモデルとなった長崎医大(現長崎大医学部)の永井隆・助教授(1908~51)の孫の徳三郎さんなど、「記憶」を記事にする頻度が多くなっている。毒蝮さんのように戦争経験者を取材するのは久しぶりだ。2015年に取材した、終戦時にNHKアナウンサーだったノンフィクション作家の近藤富枝さん(92=当時)、空襲を体験した生活評論家の吉沢久子さん(97=当時)は、16年と19年にそれぞれ亡くなった。

 歴史学者の成田龍一さんは、戦争体験の語られ方には三つの局面があるとする。まず、1950年代を中心とする「体験」の時代には、戦争経験を共有する同世代の人々に自らの体験を語った。1970年代には戦後世代が増え、戦争を知らない特定の人に向けた「証言」が意識されるようになった。そして、戦争経験を持たない世代が大多数を占めるようになった1990年代には、「記憶」の時代が始まったと論じる。記憶の時代には、戦争を経験していない世代が戦争を追体験し、検証していくことが求められる。

 記憶の時代がさらに進めば、すべての国民的記憶は乾いた歴史となる。ノーベル文学賞を受賞した1954年生まれのカズオ・イシグロはその受賞記念講演で、アウシュビッツ収容所のガス室跡を訪ねた際の情景をこう述べている。

 「そのときまで、第2次世界大戦というものは、両親の世代のこと、と考えていました。しかし、いま、この巨大な出来事をじかに体験した人々が遠からずいなくなる、と思い当たりました。記憶しておくという責務が、私たちの世代に引き継がれるのだろうか。いままで気づかずにいたけれど、その責務を引き継ぐ立場にあるのではないか」

とどめたい戦争の記憶 耳を澄まし 目を凝らして

 1962年に産声を上げた記者の母は1928年生まれだ。戦争末期の1945年6月17日、16歳の時に鹿児島市で大空襲にあい、家を焼け出された。戦時中、鹿児島市は8回の空襲で市街地の大半を消失した。残ったのはわずか7%。軍都・鹿児島への攻撃は 執しつ拗よう を極めた。今年のお盆に近県の実家を自家用車で訪ねた際、「大空襲の後、近所の女性が亡くなった子どもを背負って目もうつろに歩いていてね。もうその子は死んでいるよと言えなくて」と、記者と10歳の長男に当時の様子を語ってくれた。

 8月15日の弊紙朝刊千葉県版にはこんな記事もあった。戦時中、不足する航空機の燃料にするため、クロマツに溝を掘って、松ヤニを採取した。その傷痕が残るマツが市川市内に今も71本、残っているというのだ。戦後76年、戦時の痛みを記憶するマツもある。市民団体「市川緑の市民フォーラム」がその報告書をまとめた。報告書を読んで驚いた。調査を提案した市川市在住の米屋陽一さん(75)は生まれる半年前、東京・荏原区で毒蝮さんと同じ大空襲に襲われた。母はおなかの胎児をかばいながら逃げ延びたという。フォーラムの事務局長を務める佐野郷美さん(66)は「二度と戦争をしてはならないということを、戦争体験者から聞ける機会は激減している。そんな中で、『戦争遺跡』が日常の生活空間に存在するのはとても貴重なことです。市川市の『負の遺産』であるとともに、『貴重な平和教育のための宝』なのだと思う」と話す。

 毒蝮さんは「俺たちは兵隊じゃない。なんで焼夷弾が落っこってくるんだろう」と空襲のさなか、歯がみしたという。その思い、情念にこそ耳を傾け、記憶し、後世に伝えたい。もちろん、米軍への憎しみとしてではなく、不条理な戦争への怒りとして。

 改めて思う。どうすれば、私たちの世代は戦争の体験や記憶の風化を防げるのかと。

 耳を澄まし、目を凝らさねば。

プロフィル
阿部 文彦( あべ・ふみひこ )

 編集委員。1962年、北海道生まれ。青森支局を振り出しに、科学部、福島支局などを経て、2000年から社会保障部。2014年から編集委員。社会保障、地方創生、マイナンバー制度、働き方改革などを担当。小学生の時、友人の父が傷痍軍人だった記憶がある。戦艦「大和」や航空母艦「赤城」、ドイツ軍の戦車などのプラモデル作りに熱中した。