ネットミームを考える「親ガチャ」格差ワード流行の背景に“設計者”がいるという絶望

2021年、SNSを中心に使われていた「親ガチャ」という言葉が一般層でも注目を集めた。同年末の「大辞泉が選ぶ新語大賞」では大賞に、「現代用語の基礎知識選 2021ユーキャン新語・流行語大賞」ではトップ10にノミネートされたこのネットミームは、まさに現代日本の閉塞感を象徴するものだ。

 言葉こそが社会を形作る。理念ある言葉は時代の宿痾(しゅくあ)を照らし出し、人々を鼓舞して未来へ踏み出す力を生む。人種差別撤廃をめざす公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の「わたしには夢がある」演説が、1964年の公民権法の成立として結実し、アメリカ社会を変えたのはそのひとつの現れともいえるだろう。

 だからこそ、言葉選びを誤れば社会が望ましくない方向へと進んでいくことも起こりうる。

 では、「親ガチャ」という言葉が広く受け入れられた背景には何があるのか? そして、こうした言葉を多用することで私たちはどのようなリスクを被るのか?

 言語哲学を専門とし、大阪大学社会技術共創研究センターで招へい教員を務める朱喜哲(ちゅ・ひちょる)氏とともに考える。

「親ガチャ」という言葉を連呼する問題点

 朱氏が専門とするプラグマティズム言語哲学では、言葉が持つ意味を社会的な観点から探求する。

 言葉の意味とは、発言した人の頭のなかだけで形作られるのではなく、発言を受け取る人との関係性によって、公共的に作られる

別の言い方をすれば、言葉の意味は、「会話」(コミュニケーション)を通じて、その言葉を発した理由を求めたり、理由を与えたりすることで明らかになっていく。

こうした「会話」の積み重ねの果てとして、社会における規範や、どのような社会を目指すべきか、といった合意の形成がなされていくと考えるのが、朱氏の言語哲学上の見解だ。

「これを念頭におくと『親ガチャ』のようなネットミームを多用することの問題点が見えてきます。ネットミームを日常の語彙として使うことの最大の問題は、その言葉を使うこと自体が目的化してしまう点です。そうなると社会を形作るための理由のやりとりを通じた『会話の積み重ね』ができなくなってしまう。なぜならあくまで“借り物”の言葉であり、それを使うことが会話においてどのような意味を持つのかに対して、発言者が自覚的でいることが難しいためです」(朱氏、以下同)

 自身の発する言葉に自覚的でなければならないワケは、人は往々にしてある言葉を使うとき、その言葉の背後にある価値観や規範、関係性などを暗黙のうちに前提として受け入れてしまうからだ。

「例えば、『あの人、35歳なのにまだ結婚してないんだよ』という発言があったとします。ここで語られている事実は『あの人の年齢は35歳で、結婚をしていない』ということですが、『35歳なのに結婚していないことは悪いことだ』という価値観が言外に含まれている。こうした発言がなされることで、会話の場における前提が規定されてしまいます。これは日常のあちこちで起きていることで、偏見や差別といった抑圧的な構図が生まれる一因にもなるのです」

「親ガチャ」という言葉の場合、これを多用することで「現代日本は努力をしても報われない社会である」という現状を前提として受け入れてしまうことが起こりうる。本来、こうした問題は議論され、解決されなければならないが、前提と化すことでそうした議論が生まれづらくなってしまうのだ。

日本とアメリカの「親ガチャ」事情

「親ガチャ」が注目を集めた2021年は、日本でも人気の高い政治哲学者マイケル・サンデルの新著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』の邦訳版(早川書房)が刊行された年でもある。

 同書で語られるのは、まさにアメリカ版「親ガチャ」の実態だ。ハーバード大学の学生の3分の2は、所得規模で上位5分の1にあたる家庭の出身であるという事実が示すように、アメリカ社会においても成功の可否は出自の影響を多大に受ける。一見、日本と似た状況に思えるが、日米の「親ガチャ」事情には大きな差異が存在する。

「実は英語でも『親ガチャ』に似た言葉があります。『ペアレント・ロッタリー(parent lottery)』がその一例ですが、ニュアンスはだいぶ異なります。日本語に訳すとペアレントは『親』、ロッタリーは『くじ引き』ですが、西洋でくじ引きというと、結果は神様の思し召しであり、だからこそどんな親のもとに生まれても、それは天命であるというような肯定的な感覚が伴います。

 一方で、『親ガチャ』はどうでしょう。ガチャという言葉はソーシャルゲームのキャラやアイテムを入手する仕組みに由来します。故にこの言葉には、何らかの意図をもった設計者が存在し、排出率があらかじめいじられているという前提が織り込まれている。『親ガチャ』に、自分ではどうすることもできないという不全感や絶望感が伴うのは、こうした言葉の意味と無関係ではないはずです」

 親がどれだけ裕福かにかかわらず、誰もが自分の努力に基づいて成功するチャンスがあるべきだという考え方を「メリトクラシー」(Meritocracy。「Merit」と「Cracy」を組み合わせた造語)と呼ぶ。

「親ガチャ」はメリトクラシーが機能不全を起こしているが故に生まれた言葉だが、日米におけるメリトクラシー概念の違いに目を向けることによって、日本版「親ガチャ」をめぐる絶望の深さが見えてくる。

「メリトクラシーを日本語訳すると『能力主義』になります。『Merit』を『能力』と訳している。しかし、アメリカにおける文脈では、『功績』という意味が最も近いと思います。功績主義と能力主義は似ているようで明確な違いがある。功績主義の場合、何らかの機会が与えられ、そこで結果を出すことで人生が決まると考えます。だからこそ機会の平等の大切さが叫ばれるわけで、少なくともバッターボックスに立つことは前提となっている。一方で、能力主義の場合、もちろん結果を出すことが重要なのは変わりませんが、バッターボックスに立つ/立たないという機会以前の問題として、人にはそれぞれ固有の能力が備わっていて、その能力によって平等が実現されるというニュアンスが含まれています。功績を挙げられないのと、そもそも能力がないのとでは、後者の方がもたらされる諦めは深い。これが『親ガチャ』という言葉に含まれる絶望感にもつながってくると考えます」

絶望を加速させる「日本社会の理念の不在」

 アメリカの「親ガチャ」をめぐる状況を日本のそれと比べた際、もうひとつの際立った違いが見えてくる。怒りの存在だ。名門大学が多額の寄付を行う富裕層の子どもたちを優遇して入学させることにアメリカ人は怒りを表明するが、日本で「親ガチャ」が語られる際、怒りの感覚はどこか希薄だ。何故か。

「怒るためには、暗黙の前提として『本来こうあるべきだったのに、そうなっていない』という理念が集団に共有されていなければなりません。先述のサンデルの著書からも読み取れますが、分断が進行しているといわれるものの、アメリカには立ち返るべき理念が確固たるものとして、いまだある。理念が実行されているか否かを照らし合わせる余地が存在するから、人々は怒ることができるのです。しかし日本の『親ガチャ』という言葉に伴う感情は、怒りですらない。もはやネタ化して笑うしかない、という本当に深い諦観がそこにあります。そうなってしまうのはやはり、社会はどうあるべきか、どのような社会を目指すべきか、といった理念が見えづらいというのが大きな要因だと思われます」

 だからこそ、言葉が持つ意味や内包される前提を自覚し、責任をもって言葉を選ぶことの重要性がいつになく高まっていると朱氏は説く。

「家族や友人、恋人など、大切な人と話すときにどうしているか考えてみてください。“借り物”の言葉では成り立たない会話がたくさんあるはずです。自分で責任が取れる言葉を使うこと、いわば言葉にコストを払うことでしか構築できない関係というものがあり、それは人を豊かにしてくれる。そんな人と人の関係が無数に集まったものが社会であると考えれば、私たち一人ひとりが言葉を大切にすることで起こる変化はきっとあるはずです」

 現在、出自による不全感や諦観に苛まれている人がいるならば、それは「親ガチャ」の結果なのだろうか。

それとも「『努力は報われる』と謳いながらも、裕福なエリート層の特権を保護するばかりで、苦境にある人々の声を自己責任という名目で不可視化し、富や機会の再分配を蔑ろにし続けてきた社会構造」のためなのだろうか。問い直す意義は小さくない。

(プロフィール)
朱喜哲(チュ ヒチョル)
広告会社主任研究員、大阪大学社会技術共創研究センター招へい教員ほか。1985年大阪生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。ヘイトスピーチや統計的因果推論も研究対象として扱う。共著に『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、共訳にブランダム著『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房、2020年)などがある。

小神野真弘(おがみの・まさひろ)

ジャーナリスト。日本大学藝術学部、ニューヨーク市立大学ジャーナリズム大学院修了。朝日新聞出版、メイル&ガーディアン紙(南ア)勤務等を経てフリー。貧困や薬物汚染等の社会問題、多文化共生の問題などを中心に取材を行う。著書に「SLUM 世界のスラム街探訪」「アジアの人々が見た太平洋戦争」「ヨハネスブルグ・リポート」(共に彩図社刊)等がある