森住卓。核に蝕まれる地球。インドのウラン鉱山ジャドゴダ、旧ソ連のチェリャービンスク核工場、イラクのツワイサ核施設、アメリカのハンフォード核施設、チェルノブィリ原子力発電所、旧ソ連セミパラチンスク核実験場、アメリカネバダ核実験場マーシャル諸島核実験、イラクの劣化ウラン弾汚染、など

インドのウラン鉱山ジャドゴダ、旧ソ連のチェリャービンスク核工場、
イラクのツワイサ核施設、アメリカのハンフォード核施設、チェルノブィリ
原子力発電所、旧ソ連セミパラチンスク核実験場、アメリカネバダ核実験場
マーシャル諸島核実験、イラクの劣化ウラン弾汚染、など

ジャドゴダはカルカッタから列車で西に5時間、周囲を小高い山に囲まれた、山岳地帯にある。ウラン鉱山が操業を始めたのは今から30年以上前。鉱山開発のため土地を奪われた先住民は生きるために、鉱山労働者になり粗末なマスクだけの劣悪な労働条件のもと次々と肺ガンなどで倒れていった。会社は周辺の環境汚染には全く考慮せず、ウラン鉱山からの廃液は廃棄物投棄用ダムに捨てられた。
ここで精錬された天然ウランは中部インドのハイデラバードにあるウラン濃縮工場に送られ、濃縮される。濃縮工場から出る放射性廃棄物は、Uターンしてこの廃棄物投棄用ダムに捨てられている。ダムから5キロ以内には15村、3万人が住んでいる。ガン、白血病、先天性異常や不妊、流産、が多発している。国営ウラン公社に被害の補償を求めているジャルカンド反放射能同盟のガナシャム・ビルリさんは「1974年インドは初の核実験を行った。

その時の核実験名は「ブッダの微笑み」と名付けられた。しかし、ブッダはこの子どもたちを見て微笑んでいるとは思えない。我々の守り神は嘆き悲しみ、涙をこぼしているだろう」と言った。

1954年3月1日村長をしていた、ジョン・アンジャインさん(28才=被曝当時)早朝、西の空を見ていた。突然、西の方から赤や黄色、真っ白い光が水平線の彼方から立ち上ってきた。その後大きな爆発音と島全体が揺れ、爆風で木が倒れ家や机が倒れた。10時ごろになると死の灰が降ってきた。飲んでいたコーヒーの中にも死の灰が入ってきた」と当時をふりかえる。

ジョンさんが見たのはアメリカ最大の15メガトン水爆「ブラボー」の実験だったのだ。アメリカは1946年7月、4番目の原爆を中部太平洋マ-シャル諸島のビキニ環礁で爆発させた。以後13年間にビキニ、エニウェトクの2つの環礁で66回の核実験を行なった。

このビキニ水爆実験によって第五福龍丸など日本のまぐろ漁船2000隻余りが被曝した。実験の行われたビキニ島からロンゲラップ島までは180キロも離れていたが、「死の灰」が2~3センチも降り積もった。やがて発熱、嘔吐、下痢が島民を襲った。この日島民が浴びた放射線は、致死量をはるかに越えていた。翌日、アメリカ人がやってきて水や食べ物を食べてはいけないと云いった。しかし他に食料の無い島民は汚染された物を食べざるを得なかった。

やがて米軍基地のあるクワジェレンに収容された島民は治療らしきものはいっさい受けられなかった。実験から3年後、アメリカは「安全宣言」を出し島民を帰島させた。しかし、島は高濃度の放射能が残り人が住める状態ではなかった。島民は甲状腺ガンや白血病などで次々と亡くなって行った。

近年明らかになったことだが、この時、ロンゲラップ島民を帰島させた目的は実験当時の被曝者のグル-プと当時島外に居たグル-プを残留放射能のあるロンゲラップ島に返し、その後、2グル-プの追跡調査を密かに続けていた。「私たちはモルモットにされたんです」とジョンさんは悔しそうに唇をかみ締めていた。

劣化ウラン弾
湾岸戦争後、イラクでは多くの子どもたちが白血病、ガン、奇形などで苦しんでいる。その原因は湾岸戦争で米英軍が初めて使った劣化ウラン弾だと言われている。

12年に及ぶ国連の経済制裁により医療現場は崩壊し、医者はなす術を持たない。被害者はじっと死を待つのみだ。西側メディアはイラクから発信される情報は、サダム・フセインのプロパガンダだと一笑に付す傾向にあるが、ここに写っていることはイラクの現実なのだ。

湾岸戦争以後、ボスニア、コソボでも使用され昨年から続くアフガンでも使われた疑いが濃い。イラクで起こっている現実は10年後のアフガンの姿になるかもしれない。イラクの子どもたちは未来に警鐘を鳴らしている。

ツワイサ核施設
アメリカがサダム政権打倒の理由として「大量破壊兵器や核開発」を上げていたその中心的施設のツワイサ核施設はバグダッド中心部から南東に25キロにある。

バグダッド陥落前後、米軍はこの施設の略奪を放置し、住民たちは施設内から金属片や汚染物質を持ち出した。特に、天然ウラン(通称イエローケーキ)の入ったドラム缶を持ち出した近隣住民は水をためたり、漬け物の容器に使ったりしていた。知識のない住民は運び出す途中で、黄色い粉を捨て行った。道路や住宅地、学校などが汚染されてしまった。やがて住民に、下痢、吐き気、皮膚に紫斑や発疹、白内障、倦怠感などの急性放射線障害などが発生し、すでに亡くなった住民もたくさんいる。

汚染地の特定と汚染除去、住民の汚染地からの避難、健康診断を実施しなければならないが、イラクには誰もそれをやってくれる所はなかった。住民は放置されていた。

私は3.11地震発生後、太平洋側の原発の動向に注目していた。テレビやラジオからは福島第一原発での事故発生のニュースが入りはじめていた。

原発がどうなっているのか?実際にこの目で見てみようと思ってしまう。これがジャーナリストの性なのか?

チェルノブイリ原発で、セミパラチンスク核実験場で、プルトニウムを生産していた核工場で、そして劣化ウラン弾が使われたイラクの砂漠で通用していた放射線測定器の針が振り切れてしまう。これほど高線量を出している土地を歩いたことはなかった。

砲弾が飛び交う戦場でさえ銃弾はそう簡単には当たらない。しかし、ここでは100%確実に我々の肉体に食い込んできた。放射線という見えない砲弾が。そして、細胞を貫通するとき遺伝子を傷つけていったかも知れない。しかし、その自覚がない。目に見えない、音もない、臭いも味も・・・。五感で感じることの出来ない放射線。もし、放射線測定器を持っていなかったら、どれだけ原発の奥深く突っ込んで行ってしまったか?今思うと身の毛がよだつ。

3月下旬から私は30キロ圏外の高汚染地域の飯舘村に取材の焦点を絞ってきた。そこでは高汚染に曝されながら人々が苦悩するの日常があった。私は村の酪農家に密着してその暮らしを追ってきた。

我が子と同じように愛情一杯に育ててきた牛を手放さざるを得ない牛飼いの無念さと怒りに寄り添い、彼らの頬を伝う涙に向けてシャッターを切らなければならない自分もまた、ファインダーが曇ることがしばしばだった。  

汚染された畑に浸みこむ原乳やビニールハウスの中で出荷できなかった小松菜の満開になった菜の花に農民の「悔しさと憤り」を感じた。

しかし、大地に生きる人々の姿は見た目には日常と何ら変わりなく、放射能による汚染と被曝そのものを切り撮る事が出来ない。どう表現したらよいのか。その模索をつづける日々だった。

チェルノブイリ原発周辺以上の汚染地に妊婦や幼子が2ヶ月以上住み続けている現実を伝えなければならない辛さも重なって、私の身体と精神はぼろぼろになり、そのバランスを失っていった。感情の昂ぶりをコントロールできなくなることもしばしばだった。

そして、その旅は私自身の被曝の履歴を書き換えることでもあった。
2011年7月1日  森住 卓