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心のリハビリテーション

〈序〉

突然病気になり、また病気を告げられ、心身に障害が出現し、さっそく「リハビリ頑張りま~す」ってならないですよね~(≧◇≦)
当初はショックであり、悲しみや不安でいっぱいであると思います。
 
手足が動かなくなって、落ち込まない人はいないでしょう。
「もう私は歩けないんだ」「リハビリなんかしてもどうにもならないよ」と思うでしょう。
そんな時、あなたはどうのように声をかけるでしょうか?(難い~)

私のリハビリテーション理念は「リハビリテーションは、まずもって障害を担った本人(当事者)が行うものであり、そして周囲の人々が支援するもの」。本人の障害を克服しようとする歩みと、周囲の人たちの寄り添うような支援がリハビリテーションを現実にしていくことでしょう。リハビリテーションは当事者からの表現と支援者からの表現の両面から語らなければなりません。そしてあくまでも主役は本人であります。

「本人が行うもの」という観点から考えると、どんなリハビリを始めるにしても、まずは心のリハビリテーションが大切です。本人が自ら歩みださないと、リハビリテーションも始まらないのです。

〈心の回復〉

障害を持った心の回復過程は、よく障害受容という言葉で語られますが、障害を受容することとはどのようなことでしょうか?

上田は障害受容を、「あきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観(感)の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的に価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転じること」とし、その上で受容までの過程を「ショック期」「否認」「怒り、抑うつ」「解決への努力」「受容」と段階づけています。

Wrightの価値転換論では、「障害受容とは、身体障害者が障害を不便かつ制約的なものでありながらも、自分の全体を価値低下させるものではないと認識すること」とし、4つの価値転換を「 価値範囲の拡大」「 障害の与える影響の抑制」「 身体の外見を従属的なものにすること」「比較価値から資産価値への転換」と述べています。

社会受容論では、障害による心の苦しみを、自分の中から生じる苦しみと社会から負わされる苦しみの2つに分けて考えた上で、段階理論などこれまでの障害受容のモデルでは自分の中から生じる苦しみの受容に焦点が当てられる傾向にあったと指摘しています。社会受容では、「心のバリアフリー」の考え方が重要だと提言されています。

障害受容 | KOTA's Lab.

〈机上と現実〉

実際に神経難病になられた方の報告です。

障害も、障害に向き合う心も、人それぞれであり、時の流れにも変化し揺れ動くものである。ネガティブになったりポジティブになったり行ったり来たり。
障害はやっぱり「害」であり、個性とは違うし、価値の転換もできない。
段階論には当てはまらない「諦め」の気持ちはある。
人の心は推し測れない。
障害を受け入れられていないかもしれない。でも、それがその人の生きていく原動力になっていればいいと思う。

https://www.netnfu.ne.jp/heart/meeting/h24/dl/prs2-2.pdf

これはよくあることですが、悲観が強く前向きになれなかったり、過度にリハビリに期待しすぎリハビリテーションが筋書き通りに進まないと、「障害受容ができていない」と酷評されたりします(落ちこぼれ宣言ですか(>_<)これでは支援者失格ですね~(;^ω^)

障害も様々、障害に向き合う心も様々。私たちは様々なケースを支援していく者であります。改善していく方、生活を維持していく方、身体的には悪化していく方、困難な場面にも遭遇します。

今も昔もよく聞く言葉に「死んだほうがまし」があります。冗談混じりの場合と本気の場合とありますが、この受け答えのエビデンスがあったら教えてほしいですね~(;^ω^)

〈支援者としての価値観〉

自分でできればよいのですが、できないこともたくさんあります。支援を受けることは、人として価値が低い様に感じられるかもしれませんが、障害を持った方がいるからこそ私たちは支援することができるのです。

支援することは「ありがとう」をいただくことがあり、また、知らないうちに「学び」を得ているものです。私も学んだことをnoteに書き込んでいます。ですので、支援されることも感謝ですが、支援することも実は感謝なのです

そして、理学療法士としては、Hitting(折り合いをつける、障害と一緒に生きる)だけではなく、Improvement(改善、楽しいと思える時間を見つける)のチャンスを逃さないように働きかけていきます。趣味や仕事や役割など、達成感や効力感を感じていただき、「楽しい」時間を演出できれば嬉しいものです。

〈プラスの言葉〉

心のリハビリテーションの実際に欠かせないのがコミュニケーションです(言霊ですね~(#^^#)。ピアサポートでも大切とされます「プラスの言葉」です。

山本五十六の言葉に「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」があります。

でも、変に褒めても違和感ですね~
*「あら~ 良くなったね~」って全然変わってないけど(*´Д`)

事実に基づいて、率直にいいと感じたことを言葉にして教えてあげるといいと思います。言ってあげることが大切ですね
*「歩くのがしっかりしてきましたね」
*「頭さえていますね~」など

マイナスの言葉はなるべく言わないようにしましょう。「なんでできないの」や「もっと頑張らなくちゃ」も憤りやプレッシャーのもとですね。

心のリハビリテーションの究極はこつこつとプラスの言葉をかけていくことですが、言葉だけじゃダメですね。コミュニケーションにおける言語とは10%程度で、9割は非言語コミュニケーションが占めると言われます。言葉のイントネーション、動作、笑顔など使って、思いっきりプラスにしてあげましょう。

〈自助の会〉

集団の中で楽しく会話することは楽しいことですね(特に女性軍)。でも集団の中で毒を吐く方もいらっしゃいますのでご注意ですね(;^ω^)。ちなみに私は一人が好きなタイプです(;^ω^)

当事者の集まり(自助の会)では、近い経験をされた方が多く、心も理解しやすく、安心感があると思います。慣れてくれば自分の気持ちも表現しやすくなると思います。はじめは抵抗感があるかもしれませんが、気持ちが落ち着いたときに参加してみてはどうでしょうか。優しく対応してくれると思いますよ。

ちなみに私も当時は犯罪被害者の自助の会に参加していました。日常では聞くこともできないし、話すことのできない内容もたくさんありましたので、支援いただいたと感謝しております。
ただ、障害も、障害と向き合う心も、人それぞれであることは忘れてはなりません。一つ一つのケースに寄り添っていくことが大切です。

〈私の障害受容〉

私も障害の受容が出来ているかというと、今でも「事故の前に戻れないだろうか」なんて思ったりします。受容は程遠いですね(;^ω^)。壊れた人生の石垣の上に、人生の石を積み重ねているようになものです。実際に壊れたものは残っているのです。その上に重ねていくしかありません。

*「賽の河原」という話があります。仏教の教えでは、親より先に亡くなってしまった子供たちは、その罪を償うため、一日中仏塔を積み上げ続けなければならないそうです。それでも鬼が来て蹴り飛ばしちゃうですね( ゚Д゚)
でも、何の悪意もないのに、なんで罪なんでしょうか?
私はあの世のことはわからないのですが、人生の石を積み上げているのはこの世の親たちだと思います。壊れた人生の上に、また人生を積み上げ、この世の鬼(不幸なイベント)が現れて、また崩される。長く生きるほど人生の石垣は醜い姿になるのでしょうね~
でも、積み上げられるということは、まだ生きているということでしょう。

お釈迦様に物申すとは、不届きものです(;^ω^)


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