39歳若見え美女と39歳教育ママどっちがマシかという話について

いや、本当に39歳にしては(という枕詞なしにしても)美しいと思う。だけどもやっぱり痛々しい。どうして痛々しいかというと結局、人の美しさという人的資本は、美しいことそれ自体で価値が産まれてくるわけではなくて、家族や友人という社会資本をゲットできてこそだなぁと感じるからだ。この人は確かに美しいが、ゲットできている人間関係はおじさんのパトロンぐらいなもので(それもいずれなくなる)、一般的に想像される幸せな家庭を得ることはないことが想像される。

そもそも奇跡の39歳!とか名乗ってせっせとXでいいねを集めている時点であまり幸せそうには見えない。本当に幸せなときはXなんて使わない。

こんな感じのポストをしたら、若見え美女からも被虐待者からも反感を買ったみたいなので少し説明しておくと、教育ママも39歳美女もマウント欲求が強いタイプの女性であるということは共通であろうと思われるということ
に注目していただきたい(まあそんな説明しなくても分かる人も多いと思うが)

39歳の美女が痛くて、39歳の教育ママの方がマシというのは、39歳でいつまでも女の子をやっていけてるぞというのが少子高齢化で滅びゆく日本においてあまりにも反社会的なメッセージであるということと、なんとか耐えてる美しさも風前の灯火であるのは明らかなので、いつか限界が来たときにどうするのかということを考えると居た堪れない。ということだ。僕は39歳女性の幸せを等しく願っているので、独身未婚奇跡の39歳よりも、39歳教育ママの方がマウント欲求の発散方法として健全であることから、なるべく今の若い世代には結婚して子ども産んでほしいなということで当該のポストがある。

また最後に虐待について話したいと思う。僕もベストな家庭ではないというか、僕自身の社会的な階層が上がっていくに連れて、周りの家庭と比べて僕の家庭は恵まれていないという風な考えが強まっている。実際に精神科疾患にも罹っているので、遺伝的にも良くない家系な中這い上がってきたというところがあるので思うのだが、虐待の定義というものが流動的すぎるということだ。教育虐待という、あえて露悪的表現を使ったが、教育虐待は虐待(親元から離すべき人権侵害)とは言えないと思う。

生きている以上、人間は苦痛(pain)を感じる。これは生理的でむしろ望ましいことですらある。反出生、反虐待みたいな人たちはこうした生理的な苦痛に着目して、苦痛の無い人生を保証出来ない限り子どもを産むべきできはないといった主張をよくするが、あなたが幸せじゃないからと言って、産まれてくるすべての子どもが幸せでないとは限らないし、苦痛があることと幸せであることは両立できるということを考えてほしい。あなたが感じているのは苦痛(pain)ではなく、苦悩(suffering)であって、苦悩は誰しも感じるものではないのである。ご自愛ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?