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表現するという運命

世界的なパンデミックをもたらしている、新型コロナウイルス。世間の自粛や休校モードの影響を受けて、3/1-3/14の間、バレエのレッスンとリハーサルが中断を余儀なくされた。2週間スタジオから離れることは、おそらく生まれて初めてだったと思う。休暇をとってバケーションに行く時も、必ず現地でレッスンが受けられる場所を選んでいるし、バレエの夏休みや冬休みは、長くても1週間程度だからだ。それ以上は、バレエの性質上不可能と言っても過言ではない。”1日休めば自分がわかる、二日休めばパートナーがわかる、3日休めば観客がわかる”と言われるくらいシビアな世界なので納得だろう。

そんな空から降ってきた空白の2週間。最初はパニックになり、自宅でできる限りのレッスンをしたり、ストレッチを念入りに行ったり、感染予防で利用客の少ないことを狙い、ジムで筋トレをしたりした。それでもやはり、スタジオで行うレッスンや先生方の熱心なご指導の元のリハーサルとは比べ物にならないくらい短時間で終わり、時間ができた。要は、生まれて初めてとてつもなく暇だったのだ。いつもはバレエでパンクしているスケジュールが次第にプライベートな予定で埋まっていく。そんな超現実的な現実を目の前に、とても戸惑った。お昼に会っていた友達と、そのまま夜ご飯を食べに行ったり、やることが無いからお昼からお酒を飲んだり、普段はバレエしかしていない週末が空いたから、土曜日の夜に遊んだり。そんな日々の中で、少し甘えも生じた。自分も人間だと実感した。

バレエのない人生も、また違った意味でいい人生なのでは無いか?そう思った瞬間がこの2週間で何度もあった。思えば、物心ついた時から、常に1番優先してきたことがバレエだったからかもしれない。”普通”の子が経験できないことにチャレンジする機会を与えていただいた代わりに、”普通”の子が経験するありふれた日常を犠牲にしてきた。舞台で綺麗に魅せる事を最優先に食生活を送ってきたし、今でこそ日光を浴びる事の楽しみを覚えたが、10代の頃は、陽の光を浴びる事すら怖かった。友達が遊んだり、部活をしているときは、足の爪が剥げる程踊っていた。もちろん自分で選んだ道だし、大好きなバレエだから一度も辞めたいと思ったことはなかったが、いざ”存在したかもしれない日常”を経験すると、流石に心が揺らいだ。

日曜日にリハーサルに戻る前の日の夜がまさに、私が”経験したかもしれない”人生そのものだった。友人の寮に忍び込み、ウーバーイーツで頼んだ美味しいとは言えないが安いご飯を食べ、ワインを飲みながらNetflixで映画を見た。普段は土曜日の夜、日曜日の日中にバレエなので、こんな事は絶対に起こり得ない。おかしな話だが、大学生活の最後の最後で、生まれて初めて学生気分を味わった。自分が犠牲にしてきたものが、こんなに素朴だが輝いている事なんだという事実が胸に突き刺さった。日曜日の朝は柄にもなく、帰りたくないという気持ちが口から漏れた。

それでも日曜日の午後、スタジオに戻った。2週間ぶりに広いスタジオで、自分の体と向き合ったとき、我が家に帰ったような安心感を覚えた。小さい時にお気に入りだったブランケットに包まれたような、そんな感覚だ。リハーサルで振り付けを確認しながら音に合わせて踊り、先生のご指導を受け、役作りに励む。全ては舞台の為に。19年間の私の生き方が、このプロセスを中心に構築されてきたのだから、たった2週間で離れられるわけがなかったのだ。全てを犠牲にしてもいい。いつもそう思ってきたし、これからもきっと、舞台で表現するという事のためなら、喉から手が出るほど欲しいものも我慢できると思う。ただ、このコロナ騒ぎが産んだ2週間は、私に”あったかもしれない”日常を擬似体験させてくれた貴重なものであったのも確かだ。今は、より一層踊る幸せを噛みしめることができるし、素晴らしい芸術の1ピースとなれる事を心の底からありがたく思える。芸術を通して表現するという事が、どんな窮地でも私と共に歩んでくれる戦友なのかもしれない。

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