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理想に対する疑問

“事実は小説より奇なり”という言葉があるが、全くその通りだと思う。詳しくはNoteを遡っていただければと分かるが、私は夏にある人のことが好きだった。その時は夏の夜の嵐が木に落とした雷のような感情が溢れて、確かにちゃんと好きだった。ところが4ヶ月の時を経て日本から6000マイル離れた地で再会した時、もうそれは真夏の夜の夢ではなくなっていた。不思議なものだ。

私たちは11月の終わりのロンドンで再会を果たし、素敵なデートをした。テートモダンの展望台からロンドンを見渡し、現代アートに触れ、テムズ川を見渡しながらビールを片手に舞台芸術を語り、そして夜景を見ながら川沿いを散歩して、グローブ座に行った。何を隠そう私はロマンチストだし、こんな完璧なデートは後にも先にも無いと思う。ただ、冷静にこのシチュエーションをアナライズすると、この夜が存在したのは、彼もロマンチストだからだということが見えて来る。それも私たちはきっとお互いがある程度自分の感情をコントロールできる、あるいはしてしまう様な器用に立ち回るロマンチスト。また、お互いがある程度の経験を経て、決してリスクは犯さないゲーム理論に基づいたロマンチスト。いくら理想でも、これではむしろ筋書きの存在する映画に近い。会えなくなって寂しいまでがワンセット。そして、理想がいつも現実になるべきとは限らない。なぜならば理想は時に、理想であるからこそ美しいという厄介な側面を持っているから。

理想というのはまた、私たちの妄想の中に存在する概念であり、いざ現実になってしまうと面白みに欠けてしまうことが多々ある。それに比べて、現実というのはなにが起こるか分からないから、冒頭でも使った”事実は小説より奇なり”という言葉があるのだ。小説は、事実に基づかない限り、妄想に近い。きっと近い将来また彼に会い、それも洒落たヨーロッパの都市でデートをすると思う。それでもそこにあるのは、理想が現実化してしまうというある種の超現実的体験で、それが再び恋や愛に変わることはあり得るのだろうか?絵に描いたようなロマンスよりも、”You aren’t what I used to expect but I don’t give a shit because I really like you”という類のハプニングとも言える現実的な関係が欲しくなるのは、大人になるということなのか、またはベンジャミンバトンのように年齢という逆らえないはずの時間軸を逆流しているのか。それはまだわからない。

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