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リアルである事の大切さ

奇跡と言っていいかもしれないけれど、明日が初稿締め切りの卒論があと1時間もあれば終わるところまで来ている。急に気が抜けたので、少しこの4年間で、モデルの仕事を通して感じた事をここに書き留めてみる。

ありがたいことに、ひょんなことからサロンでモデルの仕事を始めさせていただいたのが大学1年の春なので、もうそろそろ丸4年が経とうとしている。サロンやスタジオでの撮影、着付けやヘアアレンジコンテストのモデル、ランウェイでのウォーキング、そして夢のようなパリでの撮影(上の写真)まで本当に様々な機会をいただいた。何も知らない18歳の小娘に全てを託し、コンテスト出品用の大切な作品のモデルにしてくれた美容師さんには頭が上がらない。

これは紛れもない、最初のお仕事の時のデータ。冷静に見返してみれば、まず顔も腕も丸いし、本当に何も知らなかったんだなと恥ずかしくなる。そして見ればわかる通り、とてつもなく若かった。大学一年の4月に舞台を終えたばかりで、化物のような体力と若さで遊び回っていたあの頃。怖いもの知らず感が滲み出ていて、今冷静に振り返れば頭を抱える。

これは去年の年末のお仕事の時のデータ。さすがにカメラへの目線の配り方も、ポージングのタイミングも、そして何よりも自分に求められているのはナチュラルさだというニーズも4年前よりは理解できるようになったので、少しは成長した仕上がりになっている。

自画自賛になるが、ありがたいことにお仕事でご一緒させていただいた方々からの評価が嬉しいお言葉であることが多いので、身長こそ162センチしかないが、サロンや被写体としてのモデルならば、悪くないのではないかと思う。それなりにお仕事をいただき、こなしていく中で自分をどう魅せるかのコツも掴んだ。バレエや舞台芸術、学業中心の自分の世界で生きていたら決してこんなに深く関わることのない、180度ベクトルの違う美容師という職業の方々に対して心から尊敬の念を持てたのも、視野が広まったのも事実である。

ただ、この4年間葛藤もあった。カメラの向こうの自分はフェイクで、”良く”見える事が仕事である事実に疑問を抱いた事も少なくない。特にこれは誰にも非も悪気もないのだけれど、”人形みたい”と褒めて頂く時、わがままだけれど自分が空っぽであるような気分になる事がある。”人形みたい”になるべきならば、本当に人形を使えばいいのではないか、なんて屁理屈な発想をしていた頃もあった。一昨年の夏頃だろうか、このネガティブな哲学がピークに達し、美容師さんとの繋がりが多く、以前は頻繁に撮影データを載せてたインスタグラムにもプライベートの写真以外載せない時期があった。今思えばとても子供だったと思う。

こんな贅沢で捻くれた悩みを忘れさせてくれたのが、やはれ周りの人々とバレエや舞台芸術の存在だった。本当に自分を理解して、人形みたいだからではなく、ただ1人の人間として一緒にいてくれる家族や友人たちが撮る私の写真は、とてもリアルだった。バレエでは何一つ褒められた事なんてないけれど、そんな私に先生は主役を託してくれる。イギリスでバレエや、ミュージカル、ボーカル、芝居のレッスンに行けば誰よりも小さい私(痩せてるとも言う、なんせヨーロッパの人たちは私よりもかなり太っている)に全力でぶつかり、指導してくれる。当たり前だが、自分は空っぽではないし、リアルでいられる時間があるならばそれでいいと思えるようになった。仕事とレッスン、そしてプライベートのバランスも取れるようになった。

モデルという仕事は不思議なもので、憧れる人も多いけれど、いざやってみるとハードでもある。数時間で何度もヘアや衣装を変えて、それに合わせて瞬時に雰囲気を作る。何千回も切られるシャッターの中で、一体何枚が使い物になるのだろうというプレッシャーもある。でも大変なのはどんな仕事でも同じだ。皆が多方面で違う悩みを抱えている。私のケースは、”リアルである時間を大切にする”という、シンプルな解決策があるのだから、やはり自分は恵まれていると思う。それに個人的には、数十年後、忘れ去られた頃に古いパソコンやUSB、未来ではもうそんなものは存在しないかもしれないクラウドから、誰かが私の写真を見つけ出し、しばらく見つめ、その画質の悪さと古っぽさに顔をしかめ、そして結局誰だか分からないからそのまま放置する、なんて事が起こる事を望んでいる。とてもロマンチックだと思う。

最後に、とんでもない顔をしているけれどこれがリアルである事の証拠を残しておこう。



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