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アバンチュールと創作活動の関係性

あと2日で今年が終わる。今年の数々のクライシスと文学マイナーというバックグラウンドから学んだ面白い法則について、ここに残しておきたいと思う。ちなみに、卒論はまだ終わっていない。そっちを早く終わらせろという批判は喜んで飲み込む。

古今東西、どこに行っても作家という人たちが存在した。空を見上げて恋しい気持ちを歌にした和歌人や、王族に向けて芝居を書いた劇作家、はたまた混乱の時代に命をかけてストーリーを世に生み出した小説家など、その数は計り知れない。個人的な話をさせていただくと、私はアメリカ人作家F. スコット・フィッツジェラルドを敬愛している。彼の作品はいつもリアルで、登場人物が生きていて、感情が激しく紙面で踊っている。グレートギャッツビーなんて、数々の映画や舞台化により、あまりに有名になってしまったが、じっくり読んでみると驚くほど奥が深い。そんな彼の作品は、彼自身が20年代という怒涛の時代から40年代というある種作家や芸術家にとってはあまり好ましくなかった次第を通して経験した私生活が紛れもなく反映されている。

フィッツジェラルドとその妻で同じく作家としても活動していたゼルダは、しばしお互いがお互いを創作活動のネタにしていると言い争ったという。しかし、と言ってもこれはあくまで後日談であり、騒動の渦中にいれば冷静ではいられないのも仕方ないが、自分の創作のネタにできるストーリーというのは、自分の中では”終わっている”のだ。逆にまだ自分自身がピリオドを打てていないものを、綺麗に、あるいは醜く装飾して作品にすることはあまりに残酷なプロセスであろう。それが些細な喧嘩でも、素敵な一夜でも、悲しい別れでも、時間や新たな出会いが解決してくれた一件であるならば、そしてそれが自身の創造活動に潤いを与えてくれるならば、作家や芸術家は喜んで自身の経験を活かすことができる。これが、何を隠そう私自身の個人的な執筆活動から学んだセオリーだ。

私はここ数ヶ月で、どうしても書けなかった事が書けるようになった。そしてその時、自分の中でいつも心を悩ませ複雑に絡まり引っかかっていた出来事が終わったのだと確信した。そして今は、別の事が書けない。感情というのは思ったよりもナイーブで、移ろいやすく、厄介なコンセプトである。でも時に、それを知る方法はとてもシンプルだったりする。もし、あなたの中で何かが終わっているか否かを知りたくなったら、その出来事について書いてみるという作業が、答えをくれるかもしれない。

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