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私はサリンジャーが理解できない

最近アニメBANANA FISHを全て観た。
ニューヨークのギャングのボスである17歳の少年アッシュが裏社会の闇、社会問題に立ち向かっていくお話だった。
バナナフィッシュと言えば、J.D.サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』に収録されている「バナナ・フィッシュにうってつけの日」。
アニメの最終回の副題も『ライ麦畑でつかまえて』だった。

私は1年ほど前にサリンジャーの作品を3冊読んだ。
『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)
『フラニーとズーイ』(村上春樹訳)
『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳)
私には作品を原文で読む英語力も、サリンジャーという作家や作品の時代背景などの知識もなかった。読解力の乏しい私がそれぞれを読み終わった後の感想は、「なんのこっちゃ」だった。
台詞が多く、回りくどい。設定がよく分からん。この話は結局なにが言いたかったんだろう?
3冊しか読んでいないのにこんなことを言うのはおこがましいが、私にはサリンジャーが理解できなかった。

私がこの3冊から唯一感じ取ったのは「大人(大人になること)への絶望」だった。
私が読んだ作品の中に出てくる大人たちは、せかせかと煙草を吸って、世間体を取り繕うのに必死で、(音声が聞こえるわけではないけれど)常に早口で言い訳を捲し立てているようだった。
それに対して子どもたちは、自分の見ている世界や信じられるものの中で、周りに干渉されない閉じられた場所で、悠然と構えていた。
大人たちに何を言われても、聞こえていないのかもしれないほど、子どもたちは堂々としていた。

その狭間に居る、思春期や青年期と呼ばれる年齢の人物たちは、皆一様に苦悩していた。
世間と向き合う必要を感じながら、大人たちの無様さを嫌悪し、自分の世界を失っていくことに絶望しながらも、成長してしまう自分という矛盾に困っていた。

私はこの構造を見た時に、「大人ってそんなにつまらないかね?」と思った。
年齢を重ねることで、経験や知識が増え、自分と世間とを隔てていた殻が割れていき、世界が広がっていく。自分の人生を選択できる自由を獲得していくことが大人になることだと私は考えている。
だから、サリンジャーの作品に出てくる不自由そうな大人たちも、そこへ進んでいくことに絶望する青年たちも、私には理解できなかった。

だが、BANANA FISHを観て、少し変わった。
自分の命を燃やせると思うものに、何の遠慮もなく全てを賭けられるのが青年なのだ。そしてその輝きを大人は絶対に取り戻せない。
大人だって一生懸命になることはあるが、得ようとするものもそのために賭けられるものもたかが知れてる。そんな次元じゃないのだ。
アッシュは文字通り命懸けで、自分の目の前に広がる世界をひっくり返してやろうと、本気で生きている。苦しむことはあっても、躊躇いがない。
社会通念も善悪も関係ない、自分の正義を振りかざして生きる青年の輝きを私はアッシュに見せつけられた。
戦いでも、遊びでも、勉強でも、目の前の今だけを見つめて(大人に比べたら決して多くはないかもしれないけど)自分の持てる全てを賭けられるのが青年なのだろうと感じた。

私は子どもの頃からずっと「早く大人になりたい」「自由になりたい」と思っていた。
周りの大人に子どもとしてなめられないように気を張って、調和を作れる人間たろうと自分の我を見せないようにしていた。子どもであること、純粋無垢であることを捨てて、早く大人になりたかった。

でも、サリンジャーの作品の青年たちのように、私はもっと大人になることに悩むべきだったのかもしれない。不自由だと思っていた自分が持っていたものにもっと真剣に向き合うべきだったのかもしれない。
人生の中で「大人になってからの時間」よりも「大人になるまでの時間」の方が圧倒的に短いということを私は知っていたけれど、意味を理解していなかった。
その時にしか見えなかったもの、掴めなかった輝きが私にもきっとあったはずだ。

結局私はサリンジャーを理解していない。
そして、大人になることは決してつまらないことじゃないという考えも変わらない。
けれど、あったかもしれない輝いた時間に思いを馳せてしまうし、私が出会ったサリンジャーの作品の青年たちに敬意を表せざるを得ない。

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