「一世一代の大ペテン」に騙されたい
芸術・エンターテインメントを消費する側の人間として重要なのは、それがいかに現実を忘れさせてくれるかだと私は考えている。
碌でもない日常があっても、片のつけようのない悩みがあったとしても、それに触れている時はその一切を忘れ去ってしまう。現実から遠ざけられてしまう。
人は誰しもそんな願望を持っていると思う。
だから、世の中には小説が溢れ、映画が溢れ、音楽が溢れている。この世はエンターテインメントで溢れている。
私たちは、架空を愛して生きている。
そして、極上の芸術・エンターテインメントとは、受け手の現実だけでなく、表現者たちの現実をも吹き飛ばすものだと思う。
貧困に苦しみ、他者に依存することで何とか生きている自分に絶望している画家でも、色彩鮮やかな生命力に満ち溢れた絵を描く。
泥沼不倫の挙句に離婚して若い愛人と再婚するようなミュージシャンでも、変わらない永遠の愛を歌う。
その作品に触れた時に、それを表現している者が抱えている現実を感じさせない、そんなものに左右されずに、生み出した作品のありのままが受け手の胸を打つ。
そこにある美しさ、主題が、不純物なく真っ直ぐに受け手に響いたなら、それだけが受け手にとっての真実になる。
嘘でもいい、いや、受け手を完全に騙し通す嘘こそが最高のエンターテインメントだと思う。
最近読んだ小説家のエッセイの中にこんな一節があった。
「小説という世界においては、本気で嘘をつけばつくほど、正確に自分を表現できたと感じられるのである。」
表現者にとって、嘘をつくというのは難儀なものだ。嘘を本気でつく時、表現者としての真価が問われる。
そして、そこには、少し気を抜けばありのままの真実が滲み出てしまうかもしれない、いつか破綻してしまうかもしれない危険がはらまれる。
表現者が嘘をつく時、その危険の一切を背負う覚悟が必要になる。
2015年にLIPHLICHというバンドが「SKAM LIFE」という楽曲をリリースした。
このCDの発売が発表された時、「SKAM LIFE」とは全くもって恐ろしい曲目をつけたものだ、と私は思った。
scam=詐欺に当時のバンドメンバーの頭文字をかけた「SKAM」、の「LIFE」=人生という曲。
LIPHLICHがバンドとして、表現者として、この曲を世の中に生み出したことに、私はとてつもない重みを感じる。
一度そのバンドの曲として発表・発売されたことは、半永久的に記録に、記憶に、良くも悪くも残ってしまう。
そこにバンドメンバーの名前を刻むということは、この「この4人がLIPHLICHだ」「この4人でずっと続けていくんだ」という決意であり、覚悟だ。
そしてファンにとっては約束のようなものだ。この楽曲がある限り、この楽曲を信じている限り、私の好きなバンドは変わらずにそこに在るのだという。
つまり、「SKAM LIFE」は永遠を決意したことを世に知らしめ、約束する楽曲になる。
こんなにも途方もない楽曲をLIPHLICHは生み出したのである。
バンドを続けていくことは難しい。解散、メンバー脱退、無期限活動休止…永遠を本人たちが望み、応援するファンが望んでも、それが叶うことは稀だ。
一つのバンドが形を維持していくことはとても難しい。
10周年の壁という話を聞いたことがある。
バンドを続けていく中で、10周年は大きな節目であると同時に、限界点であると言われている。
確かに、私が人生で1番大切に思っているバンドは10周年ライブをもって解散した。今から約10年前である、私の高校時代に青春を共にしたバンドたちはほとんど残っていない。
悲しいけれど、それはもう事実なのだ。世の中的にも、そして私自身の経験としても、これは揺るぎようがない。
だから私は「SKAM LIFE」という曲名を見た時に恐ろしいと感じたし、言葉を選ばずに言えば、できない約束するなよ、なんて思ってしまった。
そして、事実として、その約束が果たされることはなかった。
2015年の暮れ、「SKAM」の「M」は消えることになる。当時のドラマーが脱退するのだ。
腰を痛めてしまい、バンドを存続していくことができなくなったそうだ。
私の好きだったLIPHLICHは、その形を保つことが出来なかった。
「SKAM LIFE」は、嘘になってしまった。
だけど、今でも私にとって「SKAM LIFE」は大切な、大好きなLIPHLICHの楽曲だ。
脱退の発表を受けたその時はショックだったし、聴くと悲しい気持ちになるからシャッフルで流れてきた時は慌ててスキップしていた。
でも、今は違う。あの曲をライブで聴いていた時の感覚を、今でもありありと覚えているから。
あの時、私は確かに永遠を感じていた。
それがどんなに困難なことか嫌という程分かっていたのに、私は確信を持って信じ込んでいた。
この最高の楽曲を、この最高のバンドで、これからも永遠に聴くことが出来ると。
メンバーが脱退する、ということは一日二日で決まるようなことではない。
だから、楽曲が発表された頃には問題の芽が芽吹いていたかもしれないし、その後のライブツアーで演奏していた時にはタイミングを話し合っていたかもしれない。
それでもLIPHLICHは「SKAM LIFE」を披露していた。ボーカルの伸びやかな歌声が紡ぐ詞は謎めきながらも力強く、ドラムの軽妙なリズムはフロアのファンたちを揺らし、ギターとベースのユニゾンは美しかった。「SKAM LIFE」は、ステージの裏にどんな事情があったとしても、ファンにとってはただただどこまでもかっこいい曲だった。有り得ない永遠を信じ込んでしまう程に。
私は完全に騙されていた。騙すだけの力量をあの「ペテン師」は持っていた。
「SKAM LIFE」が演奏されている時、あの歌詞が、ギターとベースのユニゾンが、あのドラムのリズムが、私の世界の全てだった。
バンドというものはいつどこから綻びるか分からないなんて安い通説は、そこには存在しなかった。
目の前にあるかっこよさだけが真実だと思わされてしまう。今ときめいている感覚だけが全てであるような気がする。
LIPHLICHはあの時、嘘を真にしてしまう大ペテン師であり、最高のエンターティナーだった。
「SKAM LIFE」には「5つの嘘」があるという。(ボーカル自身がそう語っていたし、実際歌詞の中にも「5つの嘘をついたことをここで白状しよう」という詞がある。)
今思うと、きっとそれ以上の嘘があの曲には含まれていただろうと思う。
表現者として、その嘘をつき通すのは大変なことだったろう。
LIPHLICHが「SKAM LIFE」を作った時に、大ペテンを演じようなんてことを考えていたかどうかは分からない。(寧ろ、何かが崩れていくような兆しを感じながら、それを繋ぎ止めようと、永遠であれと、祈るような気持ちがあったのかもしれない。)
だけど実際に、彼らはファンである私の現実も、彼らの抱える現実も、全てを煙に巻いて、永遠を高らかに歌い上げた。
「一世一代の大ペテン」をLIPHLICHはやってのけたのだ。
私にとっては、実際に永遠が叶わなかった悲しみよりも、永遠を信じ込ませてくれた彼らに対する尊敬と感謝の気持ちの方が圧倒的に強い。
最高のエンターテインメントを提供してくれたLIPHLICHを、その才能と姿勢を、心から愛し、信頼している。
「SKAM LIFE」がリリースされてからのこの5年間で、メンバーが2度入れ替わった。
それでも尚、彼らはLIPHLICHとして存在している。
形が変わってしまったことも、「SKAM LIFE」のようにもうライブで聴くことのできない楽曲があることも、LIPHLICHとして全てを背負ってステージに立ち続けている。
綻びた場所から新しい世界を作り、その世界だけが至高のものと、都度思わせてくれる。
彼らの「一世一代の大ペテン」はまだまだ終わらない。
現実を言えば、彼らだってただの人間だ。
だから、ただの人間として、振り返ってしまいたくなる過去が、何を歌いたいのか分からなくなる夜が、自分の夢の途方のなさに立ち尽くす瞬間があるだろう。
そんなただの人間が、一度ステージに立ち、スポットライトを浴びると、スターになる。フロアにいる人間を魅了し、熱狂させる。
例え綻びたって、何度でも、LIPHLICHという新しいエンターテインメントを、彼らは見せてくれる。
LIPHLICHという嘘を、夢を、理想を、幻想を、演じ続けている。
そして、そこに掲げたものに、現実をにじり寄せようと戦っている。
こんなバンドに出会えたことは、エンタメを消費する側の人間として、ファンとして、最上の幸福だと私は思っている。
LIPHLICHこそ最高のエンターテインメント。
作り上げられた世界の中で、そこで描かれたもの以外には「明かすことなんて何も無い」と、不敵に微笑み、煙に巻く、ペテン師だ。
そして私はこれからも、いつまでも、そのペテンにかかっていたいのだ。
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