水俣病公式確認から50年


「水俣病」

この病名を聞いたことがあるだろうか?


「公害の原点」とされる水俣病は26日、政府の公害認定から50年を迎える。

今なお、1829人が、患者認定を申請し、処分を待っている。

認定や補償を巡る裁判も続いており、全面解決への道のりは遠い。


アセトアルデヒドというプラスチックの原料を製造していたチッソ水俣工場の排水に含まれたメチル水銀化合物が原因で、水俣湾の魚を食べた人や動物が被害を受けた。

また、水銀が母親のへその緒から胎児の体内に入り、「胎児性水俣病」の患者さんも多くいる。


この程度の知識は、小中学校の社会の教科書にも日本の「四大公害病」の一つとしてほとんどの人が知っているだろう。


私も昔、日本が高度経済成長を果たした影で被害を受けた何の罪もないかわいそうな人達もいるんだ、くらいにしか思っていなかった。

しかし、偶然、熊本の大学に進学し、受講した講義の教授が水俣病を研究されていたことで水俣病について調べるようになり、この問題は、今も日本で問題とされている「国益」「人権」「コミュニティー」「分断」「責任」といったワードが凝縮された先例であると知った。


まず、一番驚いたことは、1956年に水俣病が公式確認された後、当初から原因と疑われていたチッソ水俣工場は公害認定直前の68年5月まで12年間メチル水銀を含んだ排水を海に垂れ流しにしていた。

その理由の一つとして、当時、戦後の日本が海外に輸出できた化学製品が「プラスチック」だけだったため、その原料となるアセトアルデヒドの製造を中止しなかったからだと言われている。


国益が人権より優先された。

大勢の人の利益のために一部の人が犠牲になった。


水俣病は国vs患者の構図がイメージされるが、実際は、患者の方は裁判所ではなく、「生活の中に闘い」があった。

一緒に漁をしていた仲間たちからの差別、偏見

チッソ工場で働く人と水俣湾で漁をする人

国の案を飲むか飲まないか患者同士での意見の食い違い

「水俣病」というレッテル。風評被害

自分自身を水俣病を認めたくないという心の葛藤


そして、その闘いは今も続いている。


こうして考えると、現在進行形の水俣病は、いつ終わりが来るのだろうか。


せめてその教訓を生かした社会になっているのだろうか。


私は、幸運にもご縁があって知り合うことのできた水俣病の患者さんたち、色んな経験をされた水俣に住む皆さんにたくさんアドバイスをもらいたい。



(熊本日日新聞9月27日朝刊1面より)

「たから箱」の詩が心に響いた。

袋小は水俣病の患者さんも多い地域にある。

そこで暮らしていた杉本エイコさんという水俣病の患者さんは、こう述べている。

「水俣病は、『のさり』だ」

『のさり』とは、方言で「天からの授かり物」といった意味で、大漁を喜ぶ時「きょうはのさったねえ」などと使う。


自らの苦しみを救うことができるのは、お金でも、謝罪文でもなく、

自分自身を許すこと、だと。



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