愛していようが愛していまいが・・・
自由であることの不自由への了解、そしてそれ自体が本当に自由なのかと疑う姿勢は持ち続けなければならない。
もちろん、行き過ぎた自由もあるけれどそこには毎回自由へのバランサーが働く、それこそ神の見えざる手。
しかし、その一方でその自由に、善意であったとしても規制を加えようとする動きには、必ず思想があって意思があり、必ず高いところからの視点だ。
そして、その規制は行きつくところまで行かなければ、終わりはない。
更に、その思想と意思の規制は加えた当人(達)には及ぶことが無い。
なぜなら、それは発動した瞬間に当人(達)はゲームプレーヤーになるからだ。
絵を描く、音楽を作る、写真を撮る、文章を書く。
誰だって、今手元にある材料や環境で何かを作り上げている。
材料や環境の不足を理由にして作品を作らないのは、アホのすること。
アマチュアだってそうなのだから・・・プロならなお更。
あなたがこの国を愛していようが愛していまいが、そんな事は関係ない。
そんな告白も、必要はない。
少しでも、成果を出してくれたらそれでいい。
物事への愛と実働の成果の結果は比例するものではないのだから。
人間が寄ってたかって喧々諤々する間に、
大体の事は本質を離れて変形してゆく。
愛があるゆえに真剣なのかもしれないが、
自分の思うとおりの作品が人に受け入れられるかといえばそうではない。
想いとは別に「多数に受け入れられている」この事実が歴史を作る。
それが、嘘であろうとも。
受け入れられている事実を無視して、何とかそれを変えようとする動き、
それはもう、「マニア」と同じ意味ではないか?
そして、そのものの中で「政治」がはじまり、変形して曖昧な決着を見せることになる。。
ならば、いまのままでいいのではないか。
それで、何とかしてゆくのが作り手の見せ所じゃあないのかね?
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