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こころのもよう

アフォーダンスという言葉をご存じだろうか?ある方の文献でこの言葉を知った私は興味を持っていた。

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造られた。
Wikipedia参照

デザインなどにも用いられる概念で、引く・押すを直感的に促すドアの形状であったり、ボタンやレバーなど意識しなくとも促されてしまうことはある。大自然の中にも物質的な中にもその作用は活きていて、人はそれに無意識的に影響を受けている。そう、私たちは環境・物質・自然・人と関わり、アフォーダンスの中で生かされている。匂いで季節を感じたり、水のせせらぎに落ち着いたり、山々を見て荘厳さを感じたり。アフォーダンスは心模様にもアクセスしてくるようだ。

慧正は言葉(とりわけ発話)を道具として使うことが少ない人生だった。言葉は道具でしかないこと。思考は自らが持ち合わせる”ことば”の範囲内でしか働かないこと。それは慧正との関わりの中において、彼から表現される様々な感情の多彩さに”予想外”という驚きと共に感じる事が出来た。「知る」ではなく「感じる」ことが必要だった。なぜなら「そうである」と彼が答えを言ったことがないからである。無意識のうちに彼の態度に反応していた私はアフォードされ、アフォードしていたのかもしれない。

心が痛い、心が暖かい、心が揺さぶらせるなど、どこにあるか分からない「こころ」に温度や動きが生じるのは、アフォーダンスによるものなのだろうか。私には確かに体感として在る。

心とは一体何なのかは分からない。確かに言えることは自分という閉じた箱の中にあるのではないということ。それは関係性という空気感、安心感という場、人から出入りする息が交わる所に在るのかもしれない。そもそも「自分」とは閉じておらず、全てに繋がっているようだ。

慧正の表現は私を含む環境からアフォードされ、自ずと発せられていたと感じる。時にお互いにとって心地良くなくても。彼は私とは違い自分を表現するだけで、表現で他者をコントロールしようとはしなかった。もっともっと素直に彼にアフォードされていたなら、私はもっと自由でいられたのかもしれない。

時折りルーティンを止めて庭の木をじっと見つめていた。木は彼に何を語りかけていたのだろうか?




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