障害者手帳メンコ大会に関しまして


 こんにちは、まよえるてんちょうです。イベントバーエデン京都の店長をしています。新年から障害者手帳メンコ大会、本当に賛否両論、様々な意見をいただきました。ご参加いただきました方、ご見学の方、ツイッターから応援してくださっていた方も本当にありがとうございました。 そもそもエデン京都ってなに?という方に、まずはエデン京都の説明からしていきましょう。

 エデン京都はイベントバーエデンの系列店であり、本店と同じく1日バーテンとしてイベントをすることができます。複数のイベントにまたがっての常連さんというのも沢山いらっしゃいますが、そのシステム上「毎日違う店になる」という側面があり、各イベントはそれぞれ独立したものとなっています。またどのようなイベントを行ってよいかという基準に関しましては、法的に問題がなく、店舗に著しい損害を与えることがなく、エデンのブランドイメージを損なわなければなんでもかまわない、というようになっています。今回の障害者手帳メンコ大会もそのような1日バーテン主催のイベントであり、正直「私がやったことじゃない」というのも事実です。しかしそういったイベントをしてもよいとOKを出したのは私であり、また店のTwitterアカウントへの動画投稿を許可したのも私(撮影、キャプションなどは副店長)であるため、これから書くことは主催者ではなく店の責任者としての言葉となります。店長として、副店長やお客さん(運営の方式上、エデンにとっては1日バーテンも大事なお客さんです)を守る必要があると判断したからです。Twitterでもいくつかのコメントに反論していましたが、やや無理のある主張になるなど私の方の誤読も少しひどいように感じられたので、改めてnoteという媒体でしっかりとご説明させていただこうという次第です。

 まず、障害者手帳メンコ大会というのはなんなのか?というところから始めましょう。これは元々エデン本店で行われていたイベントで、置き物さんによるエデンについての論文にもあるように決して初めての試みではありません。発祥については定かでないのですが、私の記憶が正しければぐっちょむさんのこのツイートが初ではないかと思います。

 2020/01/12時点では81リツイート145いいね、リプライもついていません。失礼かもしれませんが、あるいはよかったと言うべきか、決してバズっているとも炎上しているとも言い難い数字です。ではエデン京都の方を見てみましょう。

 はい、2020/01/12時点で3413リツイート9003いいね、リプライも大量について非難と称賛とどちらでもないコメントがたくさん、引用リツイートも大量に来ています。ぶっちゃけ炎上です、店アカウントの通知が死にました。1日バーテン相談などはダイレクトメールからお願いします。とまあなぜこのような差がついたのか、本当の理由などというのは誰にもわからないので特に根拠のない私の予想を述べると、まず第一にキャプションだろうと思います。先ほども書きました通りツイートすることに許可を出したのは店長の私ですが、この動画を撮影し、キャプションを書いたのは副店長です。「バズ構文で書いてもいいですか?」と質問され、私は広めた方がいいだろうと「ではそれでいきましょう」とツイートボタンを押しました。バズ構文で本当にバズりました。第二に、やはり動画のインパクトでしょう。これからメンコ大会をやるということがわかっていて、きちんと意義のあることだと思っている私でも実際に見るとインパクトがあったので、何も知らないまま切り取られてこの部分だけを見た人にはかなりの衝撃だったように思います。割とぶっちゃけた話……笑い方とかもちょっと下品ではありますし……まあ、馬鹿にしていると受け取られても仕方ないようには思いますね……?

 次に、なぜ私がそのように広めた方がいいだろうと思ったのかについて書いていきます。まず私個人の障害者手帳メンコ大会に対するイメージですが、最初に見たときの印象は「面白いなぁ」でした。元々私はやや露悪的であったりブラックユーモアと呼ばれるようなものを好むような性質があり、普通はメンコにしたりしないようなものがメンコにされていること、それが障害者の証明ともいうべき障害者手帳で行われていること、実際に参加者がどう思っているかというのはともかくとして、障害者というアイデンティティを持つ人間の一つの自己表現として機能しているように思われました。露悪的、ブラックユーモアと表現したように、決して上品だとは言えないように思います。でも何かを表現したいと思ったからこそTwitterにアップロードされている訳で、そこから言語化できない、あるいは本人にも無自覚かもしれない強いメッセージを感じました。だからこそ、エデン京都でやりましょうと言われたとき、私は快諾しました。ただその場のノリや思い付きでの悪ふざけではなく、このようなイベントを主催したい人がいたから計画され、参加したい人がいなければ成立しないイベントです。私個人は特にやりたいとは思わないけれど、こういったイベントを必要としている人がいるのならば必要なのだ、それこそがイベントバーエデン(京都)の存在意義であるように思えたからです。そうして開催を決めた後、私は趣味アカウントの方で障害者手帳メンコ大会の存在について触れました。それについて私と同じようにブラックユーモアのようなものを感じたのか、フォロワーの一人が「じゃあ障害者手帳取ろうかな」と言ってくれたのです。その人は私が見ている限りかなりの生きづらさを抱え、毎日つらい思いをしながらギリギリで生きていて、でも自分なんかが受診したって……と思ってしまうような人でした。私も病院に連れて行ってあげられる訳でも医療費を払ってあげられる訳でもないのに「病院に行け」とはとても強く言えず、ただ見守っていたのです。そういった障害者手帳の必要そうな人がいっときでも笑ってくれて、手帳取得へと人を動かすことができ、障害者手帳メンコ大会の大きな力のようなものを感じたのでした。「いや、メンコするためだけじゃないですよ!」と言ってくれましたが、それは私も痛いほどわかります。深く考えて考えて悩んで葛藤して苦しんでしまうほどの思慮深い人にとって、行動を起こすきっかけというものはきっと本当に些細なもので、ある意味では悪ふざけに近いようなものの方がいいこともある、そんな風に思いました。そして、最後の理由は当日の参加者の様子です。メンコ大会と言いつつまあそういうポーズだけで儀式的なものなんだろうな……と思っていた私は、そこそこしっかりメンコとして打ち付けられる障害者手帳にほんとにメンコやるんだ!?というのが正直な感想でした。私自身も自閉症スペクトラム障害であり障害者手帳を取得しているのですが、一歩引いたところで見守り、若干引いていた……というのもまあ事実です。しかし参加者の楽しそうな様子、そもそもメンコの素材としても不適当であるが故に「動作性IQが低いからひっくり返せない」「障害者である証明はそう簡単にひっくり返らない」「障害者手帳の重みを感じる」などのブラックユーモアに次ぐブラックユーモア、ああ、これは彼らが自身を障害者だと受け入れ前を向いて生きていくための儀式なのだなと納得したのでした。それらの理由により広く知られるべきだ、とエデン京都アカウントに投稿されたのが先ほどの動画なのですが、私にも予想できなかったほどの反響が来て驚いているところです。否定的な意見が来ることも、見た人が私のフォロワーのように肯定して自分が動くきっかけにしてくれることも予想していましたが、単純に量に驚いています。私がいくら障害者手帳についての真面目な話をしようがまったく反応されず、そんなツイートしてたっけ?とも言われてしまうのに対して、結局人に見てもらえるのはこういうツイートだけなのか……という無力感すら覚えたのも確かです。しかし逆に言えばこういう方法でなら人に広く障害者手帳について知ってもらえるということでもあり、どんどん過激になっていく表現というものはこういう仕組みで生まれていくのだなということも感じました。

 さて、問題はその否定的なコメントの質でした。私は色々と覚悟の上でやっているので、否定的なことを書かれようが構いません。表面的なところだけを見て行かないと言い出す人はそもそも我々の客ではないですし、不愉快だと感じることも表現することも自由であるように思うからです。理解できない人がいるのも仕方がないことですし、決して万人に理解を得られる方法でないことも重々理解した上で公開しています。しかし度を越したものにはしっかりと反論しなければイベントやツイートを許可した店長として客を守れないと判断し、いくつかのツイートには反論させていただきました。その過程でやや稚拙で無理のある反論をしてしまったこともまた事実であり、なかったことにしてくれとは言えませんがその点については謝罪しておきます。勢いに任せて書いてしまい申し訳ありませんでした。それではまず私が反論していたものをいくつか挙げ直していきましょう。

・手帳とは障害者にとって命綱のようなものであるのに、こんなことに使うなら手帳を国に返せばいい

 とても助かってはいるけれど、「命綱のようである」というほど生死に関わるようなものではない、というのが私や周りを見ての印象ではあります。命綱という文脈で表現するなら、むしろピッケルでしょうか。持っていることで険しい道のりも登っていきやすかったりはしますが、落ちた時に別のセーフティーネットがなければ普通に死にます。いや、ピッケルも滑落したときに止まったりはできますが、まあ登山の話をしても仕方ありません、便利な手帳も流石にそんな効果はないです。しかしあえて「命綱のようである」としながら「国に返せ」とは、『命綱を命綱として使っていないときに命綱で遊んでいただけの人間』に『いざ命綱が必要な局面で死んでもよい』と言うのとなんら変わりがありません。命綱を燃やした訳でも切った訳でもなく、ただ投げ縄遊びにでも使っていたような人間から取り上げた方がいいなどとは、いくら言葉の綾と主張したところでただ恐ろしい表現であると言わざるを得ません。と思っていたのですが、私のASD特性的に「言葉の綾」という概念の理解に限界があるので副店長に解説してもらったところ、「こういう扱いをするということは不要なはずだ」という主観による断定によって「不要なものは返せ」という感情が発生し、「こういう扱いをするなら返せ」という論理の飛躍(に見えるもの……ですね、私にとっては)が発生するらしいことがわかりました。しかし不要かどうかを判断するのは当事者や主治医や自治体などであって、Twitterで動画を見ただけの人ではありません。その全てが必要だと判断することで交付された障害者手帳であるのに、少し動画を見ただけで「医学を専門に勉強した主治医」よりも「診断書を受け取った自治体」よりも判断能力があると思える自信はちょっと羨ましいですが。あと細かいようですが障害者手帳は国ではなく地方公共団体が認定・発行するものですので、あまり障害者手帳についてご存知ない方からのご意見かもしれません。

・障害者全体のイメージが悪くなる

 これについてはYouTubeでえらてんさんも反論してらっしゃいますが、健常者が一人ひとり違う人間であるように、障害者だって一人ひとりが違う人間です。個人や一部の集団の行いを属性全体で判断する人間がいるというのは事実ですが、私はそういう人々こそを相手に表現をする必要があるように思っています。たとえば某長時間テレビ番組のような「障害者も健常者みたいなことができてすごい!」「障害者なのに頑張っててえらい!」というような感動ポルノ。そんな風に生き方を消費されることにうんざりしている障害者にとって、「障害者にしかできない褒められたことではないこと」による自己表現は、かなり強いカウンターとして繰り出すことができます。障害者は健常者を感動させるために生きてるんじゃないんだ、障害のない自分は全然マシだと溜飲を下げるために見下すな。犯罪でも攻撃でもなくただ「品行方正でない行い」をすることで、一面的なものの見方をしていた人にこそ「障害者も個人であること」を印象付けられたのではないか……と思うのは期待しすぎなのかもしれません。「全体でしか見られない人間にとっての障害者全体」のイメージを悪くしてしまいました、個人を個人として認識する能力のない人間に個人ではなく「障害者」として扱われている障害者のみなさん、申し訳ありませんでした。

・物を粗末に扱うな

 私自身も最初に見たときには正直粗末に扱っているな~という気はしたのですが、よくよく考えると私もなぜそのように思うのかはよくわかりません。実際にメンコ大会に参加された方の様子を見ていると手帳を大切に思っているように見えたので、実際にメンコしている一面だけを切り取るとそう見えるのかもしれません。「なんとなくそう思ったから」で人の価値観を否定してはいけないとも思いますので、粗末に扱っているつもりのない人がそう言うならそうなんだろうなという気がします。ただお札を燃やすのと何が違うのか、食べ物で遊んでいるようでよくないという意見もあり、それはちょっと違うように思っています。紙幣は燃やしたら灰になって(あれ?灰になりますよね?燃やしたことないですし実験する気も起きないので知らないのですが、実は耐火性があって焦げ目すら付かなかったりしますか?障害者手帳をメンコにすることとの違いがわからない方、実験動画をお待ちしております)使えなくなってしまいますが、障害者手帳をメンコにしても汚損・破損などにより使用不能になる訳ではありません。全く変わらず使用することができますし、祟りがあって障害者控除や補聴器への補助金が受けられなくなるということもありません。自分が不快だったからと祟って各種サービスを受けられなくしたい障害者手帳の神のような人が複数見られたので、興味深い価値観だと思いました。また、私は別に食べ物で遊んでもかまわないように思っているのでそこは価値観の違いですね。知育菓子やケーキのデコレーションなどが好きですし、小さい頃は市販の小麦粘土で遊んだこともあります。また、been makotoさんのこのツイートは非常にうまく表現していただいたように思います。

 手帳はケガレでも聖遺物でもない。手帳はネガティブなレッテルではなく、宝物のように扱いたい人がいてもいいけど、宝物のように扱うことが絶対的に正しいものでもない。私に人の内心はわからないので、もしかすると参加者の中には手帳をケガレだと思って「粗末にしたかった」人もいたかもしれません。障害者としての象徴である障害者手帳を投げつけることで、自分に貼られたように感じているネガティブなレッテルから目を背け、言葉にならない気持ちをぶつけた人もいたかもしれません。けれども全員が自分の障害者手帳を拾い上げ大切にしまって持って帰ったということは、そこにあったのは障害者としての自分を認め、障害者としての自分と向き合って生きていくための儀式だったのかもしれません。

 店長の立場から言えるのはこのくらいでしょうか。主催の方、当日参加された方、それぞれに思いがあるはずで、私のその内心を知ることはできません。ただ、私自身は大きな意義があると思って障害者手帳メンコ大会の開催を許諾したこと、障害者手帳を大切に思っているからこそ知ってほしかったことなどは私の意見なのではっきりと述べることができます。不快な思いをした人がいることには申し訳ないと思っていますが、それと同じかそれ以上に人を愉快な思いにさせたり必要な人に必要なメッセージや情報が届いたことも事実ですので、開催そのものを後悔はしていません。もっと他の方法はあったかもしれませんし、もし今後同じようなことをするのであればより不快になる人は少なく、より多くの必要な人にメッセージが伝わるよう工夫しなければならないとも思っています。最後に、応援してくださった方、心配してくださった方、決して暴言などではなく誠実な言葉で批判してくださった方、ここまで読んでくださった全ての方に感謝の言葉をささげます。本当にありがとうございました。

よろしければぐっちょむさんの方にも何か送ってあげてください。


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