「プリミティブ・キャリア」という選択について
私の大学時代の長期休暇の定番といえば、農場巡りだった。
朝4時半起きでトラクターに駆り立てながらとうもろこしをぽいぽい収穫する長期にバイトにでかけたり、
某アフリカの電気も水道もままならない山奥で布一枚の方々とキッチンガーデンを作り、日が落ちると火を炊いてお豆をたべたりと
授業に関してはそこそこだったけれど「エンタメ」としての農業(むしろ自然との戯れ!笑)には、足が向かい続けた。
いまでもGoogleマップには、リゾートではなく行ってみたい農場が無数にピンされている。
古今東西さまざまな農場およびジャングルを訪れたが、琴線に触れるのは、均等な美しさを持つ広大な畑や田んぼではなく
なぜこのようなところに、と思うようなネジ曲がった土地を開墾したそれだった。
「プリミティブ(野生的)なほうが美しい。美味しい。」と畑を眺めながら、あぜ道でむしゃむしゃと野菜を食べていた。
そんな生活をしていたからか、暮らしのあらゆる場面を畑になぞらえて考える癖がついている。
「これは、温室栽培。」「こっちは、パーマカルチャー」というようにサークルの人間関係や、部屋の状態、そしてスケジュール管理まで、密かに畑として捉え
「カリウムが足りない」「間引きしたほうがいい」などと思って対処してきていた。
そこで、表題に戻るのだが、私はある時自分のキャリアを「雑多で歪だがプリミティブな美しさのある畑で育てる」ものとして方向転換した。
効率と客観性、そして結果を強く求める会社にいたときのこと。そこでは、人がチャレンジを通して早く成長し、若手3年目の先輩がマネージャーに抜擢されるようなことも起きていた。
程よく管理され、求める人には挑戦の機会が与えられる。成長と社会的インパクトを求める人にとってはこの上ない環境だった。
しかし、小さな違和感が蓄積されていった。私にとってはその成長機会が「抜群に効く化学肥料」のように思えていた。
確かに成長する。結果がでる。だが、その土壌は?栄養価は?
その中で私は、着実に基礎体力が低下していっていたし、結果は出るものの、その質に満足できないことが続いていた。
この“畑”はなるほど確かに合理的だ。ただ、私が惹かれるものではない。
そう腑に落ちたとき「土壌を変えよう」と思い至った。その会社を卒業することを決めた理由のひとつとなった。
自分のことを、微生物や鉱物、動物、植物、、生き物との共生の中に置いてあげたい。肥えた土壌で、育ててあげたい。色々な草木を自然森のように植えたい。なるべく自然に、のびのびと成長させてあげたい。そう思った。
同時に私はいくつか覚悟もした。効率的に育てられた野菜よりも、実りが遅いこと。数が少ないこと。形が歪なこと。野生のにおいがすること。。
会社の違和感を抱えて逃げるように向かった森の中で、想定を繰り返し、「それでいい」と思った。
自分という畑を時間をかけて耕したい。多種多様な種が互いに助け合えるように植えていきたい。動物や微生物を避けるのではなく、力を借りる循環を作りたい。
時間をかけて豊かで多様な森のように育ててあげたい。
そう思っている。
なお、英語圏の友人に「プリミティブなキャリアを歩みたいと思ってさ。」と言ったら、
「えっと、ジャングルの中で過ごしたいってこと?」と返されたので、もう少し違う言い方を早めに見つけたいと思っている。
いつもお読みいただいて、ありがとうございます。