若宮アンリの話をしよう

若宮アンリという少年をご存知だろうか。

そう、この子である。
ここ数日世間を賑わせているこの世にも美しい少年は、つい先日プリキュアに変身した。

わたしは彼のことが大好きなので、彼の話をしようと思う。

はじめに断っておくが、このnoteは「HUGっと!プリキュア」という作品における舞台装置、および一個の知的生命体(キャラクターのことを、わたしは好んでこう呼ぶ)としての彼がいかに緻密に計画され、美しく構成されているのか、物書きのはしくれとして好き勝手な分析をして驚き、おののき、感動するためだけの私的な目的で綴るものである。

ここでは社会学の話をしているのでも、ジェンダーの話をしているのでも、ルッキズムの話をしているのでもない。
「プリキュアになった男性・美少年」の話がしたいのでもない。

わたしはただ若宮アンリの話をするのである。

わたしが彼に興味を抱いたのはいつ、何を知ったタイミングだったか。

わたしの愛する大きなお友だち連中にプリキュアシリーズをお勧めされたのは、何も今に始まったことではない。

アンリ君に対しても、初めはああ、今期はこういう男の子がいるのね、くらいの感想しかなかった。

それがいつからになるのか、その脆くも儚く、それでいて気高い精神性に、わたしはすっかり惚れ込んでしまった。
毎回欠かさず……とは言わないが、彼が出る回だけはちょこちょことつまみ食いをするようになった。日曜日の朝を起きられないわたしにしては大進歩である。

彼が葛藤を乗り越え、プリキュアになったのは嬉しかった。

変身に至るまでの過程も丁寧で、ハッピーエンドが約束されていても手に汗を握りながら見ていた。心が女児になるというのはまさにこのことである。

視聴が終わり、さあこの良き日を祝福しようとネットを開いたら、あまりの大論争に握った手の汗が数秒で引いた。

価値観とは蓄積された呪いのようなもので、一度積まれたものを度外視して物事を語るのは難しい。

おおむね幸福に生きてきたわたしにだって、殺したいほど憎いものはあるように、
そしてその憎しみがいかほどのものか誰にも理解はできないように、
この世には、わたしの理解の及ばない化け物じみた憎しみがそこかしこに蔓延っている。

数分前まで友人だったはずの相手が、たった一つの社会問題を前に突如敵に回る、あの恐怖や絶望といったら!

そんなことが、特にTwitterなんかをやっていると、ままある。
違う価値観を持つであろう相手との解決の見えない衝突を避け、友人関係を続けるために、
わたしなどはもっぱら「見ないふりをする」という対策をとっているが、
果たして本当にこれでよいのか、迷いながら過ごす毎日である。

それはさておき若宮アンリの話をしようと思う。

もういちど断っておくが、このnoteは「HUGっと!プリキュア」という作品における舞台装置、および一個の知的生命体としての彼の完璧な属性や美しさに驚き、おののき、感動するためだけの私的な目的で綴るものである。

ここでは社会学の話をしているのでも、ジェンダーの話をしているのでも、ルッキズムの話をしているのでもない。
「プリキュアになった男性・美少年」の話がしたいのでもない。

わたしはただ若宮アンリの話をしているのである。

本作「HUGっと!プリキュア」は、未来への希望を語る物語である。
というのが、おおまかなわたしの見解である。

主人公の野乃はなちゃんの夢は、「イケてる大人のお姉さんになること」。
ほかの仲間達のような知性も才能もないが、「なりたい自分」像に真摯に向き合い、今やるべきこと、できることを模索して精一杯取り組める、等身大ながらも素敵な女の子である。

そんなはなちゃんが、今できることとして見つけた一つの答えが「がんばる誰かを応援する」こと。

しかし、彼女の応援に対して「応援なんて誰でもできる、本気で頑張っている相手に対して無責任だ」とNo……いや、Nonをぶつける、ちょっとイヤな役回りとして登場したのが、美少年フィギュアスケーターの若宮アンリ君なのである。

「美少年」「フィギュアスケーター」が「未来」を語る。
この時点で皮肉というかアンチテーゼというか、造形が天才なんじゃないかと思った。

美少年。
古今東西、この地球上で「美少年」ほど、大人達から「未来」や「成長」を望まれず生きてきた者たちがあるだろうか。
声変わりがあるからか、美少年の美の刹那性は、美少女のそれとは比べ物にならないほどの切実な逼迫感をもつ。
そも古来中国やイタリアでは、美少年の成長を阻むために性器の切除まで行われていたというではないか。

そうやって、大人達はどうにかして「美少年」を「美少年」のままにとどめ、どうしようもなくなればあっさり新しいものに取り替えるのだ。
成長して「美少年」でなくなった者は、いったいどこへ行けというのか。

加えてフィギュアスケーターは、選手生命が非常に短いと言われている。
光陰矢の如し、少し目を離せば、次から次へと新しいスターが現れ話題が移り変わってゆくフィギュア界。
若宮アンリという美少年のもつシビアな世界観と完璧にリンクする構造だ。
別にこれはギャグではない。

脚に怪我を抱えていることも、彼の焦りにいっそう拍車をかけていたことだろう。

練習を重ねるたびに軋んでいく肉体。
背が伸び、声が低くなり、時間を重ねるごとに「若宮アンリらしさ」から遠ざかっていく肉体。

精神と美貌と実力、そのすべてで、時には他人に嘲笑われるような「自分らしさ」さえ自力で勝ち取り、守り抜いてきたアンリ君が、だからこそ持ってしまった後ろ暗い願い。

時間が止まればいいのに。

思い悩むアンリ君の回想シーンで、幼い彼が
「見て見て!ボク、なんでもできるよ!」と無邪気に笑う姿を見て、
自らがまだ子供だった頃の全能感、幼い日の憧れ、そしてそれが儚く敗れ去った瞬間を思い出して涙しなかった大人が果たしているのだろうか。

少なくともわたしは泣いた。
画像一枚見ただけでそれはもうボロボロに泣いた。

前回のnoteを見てくださった方は薄々お気付きかと思うが、とにかく今のわたしはこの手のキーワードにめっぽう弱いのである。

未来ある幼い子達のための、
「なんでもできる、なんでもなれる」というメインテーマに対して、
「昔のわたしはなんにでもなれた」をキャラクターとして真正面からぶつけてこられたのだ。

本作では「未来」と同軸に、「なりたい自分」「自分らしさ」が取り扱われているが、
アンリ君の場合、「自分らしさ」を守るためには「未来」を否定しなくてはならない。

なんというキャラクターを作ってくれたのか。
こんなの大人が嫌いなわけがない。

完敗だ。正直、プリキュアをナメていた。
ここまでやってくれると思わなかった。
完全にこの作品の虜である。

才能のないはなちゃん。
才能のあるアンリ君。

「自分らしさ」に迷うはなちゃん。
「自分らしさ」を貫くアンリ君。

未来の自分に夢を見るはなちゃん。
今の自分が好きなアンリ君。

両者は衝突しながらも、次第に互いを認め、尊敬し合うようになっていく。

そんな矢先の、アンリ君の事故だ。

アンリ君が乗っていた車が事故をしたのは、誰のせいでもない、単なる不幸によるものだった。

例えばこれが敵の策略とかだったら、我々は敵さえ恨めばそれで済んだ。
けれどそうではない。
物語の書き手は、この事故をアンリ君自身が乗り越えるべき運命として描いたのである。

プリキュアたちにだって、ブラックな企業に勤める大人・敵たちにだって、どうしようもないものは、どうしようもないのだ。

心配して病室を尋ねてきてくれた友人をすげなく追い払い、ひとりになってから初めて慟哭するアンリ君。
現実主義の彼らしくもなく、「もしあの時」「もしあの時」と孤独な病室で泣き叫ぶ彼の、なんと悲壮で気高く、美しかったことか。
結局彼はたったひとりで、ギリギリまで「自分らしさ」を守りきったのだ。

しかしそこに敵組織・クライアス社が甘く囁く。
こんな絶望的な未来なんか、いっそ壊してしまおうじゃないか、と……。

そこからの展開の神がかりようは、もはやわたしが説明するまでもない。

一度は絶望に暮れた彼が、
スケーターとしての希望を剥奪された、そしてもはや、「美少年」でなくなりつつある美少年の若宮アンリが、
ほかのだれでもない、自分自身の意思で、
停滞や未来の破壊を拒絶し、「輝く未来を抱きしめる」者としてのプリキュアに成ったのだ。
なんと完璧な物語なのか。

今はただ、彼のいちファンとしてその事実を祝福させてほしいのである。

最後にもう一度強調させてもらうが、 わたしはここでいかなる社会的な主張をしたいのでもない。

ただ若宮アンリの話をしているのである。

彼ことキュアアンフィニが次週以降どんな扱いになるのか、わたしには分かりかねるが、
どうか何も背負わないで、その無限大の翼で軽やかに傷つき、自由にもがき、
それでも友人らとともに輝かしい人生を謳歌してほしい。

ただでさえ、彼の前には乗り越えねばならない現実が山とあるのだ。

その先に、アンリ君のなりたい若宮アンリがきちんと見つかることを、
くだらない大人になってしまったわたしは、ただ祈るばかりである。

#プリキュア #HUGっとプリキュア

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