朝ドラ『虎に翼』についてのBlueskyポストまとめ(2) 2024年5月

(気になった、もしくは自分が何か書けそうな回のみ感想をポストしています。日付はポストした日のため、必ずしも本放送日回と一致していない場合があります。また、ポスト時の感想に一部加筆、修正しています)


○2024年5月1日
共亜事件が倒閣を画策した「でっち上げ」だというのは、情報筋には既知だったようだ。直言たち被告は、言わばその犠牲になったのだ。寅子は父の供述をくつがえす証拠を集めているうちに、事件の真実に近づきつつあったので、狙われたのかもしれない。かつての師で、この重大事件の弁護人を引き受けた穂高の言葉で、直言は翻意したか。そして、桂場が判事を担当した理由とは……
 
○5月2日
よねは、法を「舐めた男たちをぶっ叩く武器」として捉えていたのに対して、寅子は「弱い人を守る楯、もしくは布団」といった捉え方をしていた。直言を苦しめた革手錠をめぐって、検察側の主張の矛盾点に関して、寅子が監獄法施行規則を思い出し、穂高に教えたことで、法を父の楯とした。もしくは、布団をかけてあげた。賢明な教え子、そして娘に、穂高も直言も助けられた、いい場面だった。
 
○5月3日
桂場が共亜事件の判事を引き受けたのは、誰のためでもなく、司法の独立を守るため。法曹として当然のことをしたまでだ、と。法は人称性を引き剥がされ、それを制定した者たちが忘却されることによって権威を帯びる。法は、誰か特定の者たちにのみ利益を与えるようであってはならない。法につかえる者として、共亜事件には見過ごせない法への冒涜があった。判決文には、それへの怒りが込められていたのだ。
やっと団子を食べ、「法とは清水湧く泉のごときもの」との寅子の弁舌を聞いた後の桂場は、ひそかに晴れ晴れした表情をしていた。
 
○5月7日
崔香淑の兄、潤哲は出版社務めで、同僚が反体制集会に参加したとして特高に引っ張られ、潤哲も嫌疑をかけられる。特高とは特別高等警察の略で、戦中、政治犯や思想犯を取り締まった秘密警察だ。戦中の出版社弾圧といえば、1944年、改造社事件が起き、軍部の圧力で解散させられている。このあたりの詳細に関しては、僕は高杉一郎『スターリン体験』で読んで知った。
香淑は、自身は弁護士への道を諦めたが、仲間のために、朝鮮に帰るのを延ばし、勉強の手伝いをしていた。幾重にも弱い立場に置かれながら、仲間たちが法で日本社会を変えてくれることを願っているのかもしれない。
 
○5月9日
2018年、東京医科大学をはじめ、複数の大学医学部で、男性受験者に比べ女性受験者を不利に扱う不正入試が行われていたことが発覚した。
寅子たちの受けた筆記、口述試験でも、女性が不当な扱いをされているのでは、ということが暗に示されていた。いや、桂場は、かなりはっきりそれを明言していた。口述試験の場面は割愛されていたが、寅子がどんな質問をされ、それにどう答えたか、帰宅後部屋にこもって泣いていた様子から察することができる。結果は合格だったが、思っていた「景色」とは違うものだった。形式的には女性に門戸を開いても、法曹界をはじめ因習をひきずる社会はなかなか変わらない。
 
○5月10日
「はて?」「スンッ」「桂場が甘いものを食べ損ねる/食べられる」「寅子が『モン・パパ』を歌う」……。繰り返し描かれるモチーフがいくつかあって、それが視聴者に「反省」を促すフックになっている。今回の寅子が「モン・パパ」を口ずさむシーンは、過去の回想を誘い、国に帰らざるを得なかったり、家族が大変なことになったり、夫に「モラハラ」を受け続けた挙げ句離婚されたりで、道半ばで諦めるのを余儀なくされた友への思いが溢れ出る。よねは「男装」を面接官に難詰され、言い返して、口述試験は落ちている。寅子たちの怒り、「男とか女とかで篩にかけられない社会を作っていきませんか!?」との言葉は、この歴史を踏まえている。
 
○5月13日
東京帝国大学の落合洋三郎教授の著書を「安寧秩序を紊乱す」として出版法違反で起訴した事件のモデルは、河合栄治郎事件のようだ。東京帝大経済学部教授の河合は、著書発禁、大学休職処分をへて、出版法違反で起訴。一審は無罪を勝ち取るも、大審院で有罪となった。日中戦争下、言論弾圧は厳しさを増した。1938年には、日本のジャーナリストの先駆者、長谷川如是閑が発起人のひとりであった「唯物論研究会」関係者13名を一斉検挙する事件もあった(奥平康弘『治安維持法小史』)。金属類の供出が求められ、社会状況は閉塞していく。轟が「お国のために質素倹約だ」と日の丸弁当を食べる姿を、寅子は複雑な表情で見ていた。
*日本におけるジャーナリストの先駆者は、成島柳北ではないか、とのご指摘もあろうが、幕末から明治にかけての「ジャーナリスト」の系譜上に成島や長谷川如是閑がいる、と考えていただきたい。
 
○5月14日
寅子は花江が言う通り「殿方のことに疎い」のかもしれないし、優秀な女性が「奥手」というのは「あるある」設定のようにも見えるが、雲野法律事務所で一緒に働くことになったよねと対比すると、興味深い。よねは「女をやめたい」との悲痛な思いを抱え、弁護士になるため人一倍努力をしているが、生活のためにカフェーで働いていて、世間を知っている。男の生態にも、知らず知らず詳しくなる。「箱入り娘」の寅子との差異だ。
国は総動員体制が敷かれ、庶民の生活は困窮していく。アメリカとの開戦が迫る。
 
○5月15日
日独伊三国同盟調印の報がラジオから流れ、金属類の供出が求められ、益々キナ臭くなっていく世情。
先輩の久保田は、婦人弁護士として初の法廷弁護へ。これに加え、弁護依頼がまとまらない+花岡婚約のいわばトリプルパンチで、寅子は「奇策」を思いつく。親が強硬に進める「政略結婚」に反発する子、という「あるある」を、弁護士としての社会的信用を得るため「政略結婚」を自ら利用する、という手で覆すアクロバット! 思わず爆笑してしまった。
国家総動員体制で男子は徴兵されていく中、「社会的機能を担わせるため、婦人が利用されている」との新聞記者の言葉。物語は「大状況」と「少状況」のつながりもきちんと示している。
 
○5月17日
はるも直言も、寅子が「普通とは違う」ことを、薄々気づいていたのかもしれない。しかし、それがアロマンティック・アセクシュアルの可能性がある、とまでは思い至っていないだろう。そもそも、この時代に「アロマ/アセク」概念は理論化されていない。
SF作家の飛浩隆氏は、寅子が「アロマンティックであるという読みを許容する形で造形されている」と指摘している( https://twitter.com/Anna_Kaski/status/1790650264183251156?t=L1WKGeyf1Fuo-T3MSrPE7Q&s=19 )。アロマンティック(恋愛感情を抱かない)、アセクシュアル(性的引かれを経験しない)は、LGBTQ+の「+」に入る性的マイノリティだとされる。
なるほど、この視点で見ると氷解することは多い。
 
○5月20日
雲野弁護士が、自白の強要の可能性を見落として、被告人を有罪にしてしまった「失態」に比べれば、寅子の「失態」は軽いかもしれない。しかし、夫を病死で亡くした女が生きていくための「悪知恵」に結果的に協力してしまった、というのは、どこまで責められるべき失態なのか。この時代、女性の職業選択の幅は著しく狭かったはずだ。赤紙、つまり召集令状が届いた夫との離婚を思い止まった依頼人。困っている女性を「助ける」とは、社会的正義と必ずしも合致しない場合もある。寅子が婦人弁護士の先頭に立つひとりであるからこそ、ジレンマや背負う矛盾も大きい。
 
○5月21日
直言の会社は「戦時特需」で忙しく、懐妊もわかった寅子だが、一方、先輩の久保田は夫の実家に移り住むことになり、弁護士を辞めることとなる。「全てにおいて正しい人なんていない」と優三に慰められるも、もやもやは残る。もう婦人弁護士として仕事をしているのは自分だけ、との思いから、久保田がしていた仕事も引き受ける寅子。言論弾圧に抗する雲野は、雑誌『改造』を読んでいた。
閉店が決まった甘味処で、団子を食す桂場。
禍福は糾える縄の如し。
 
○5月22日
よねが雲野を「法律以外、頭の中は明治だな」と批判したことがあったが、当時としては進歩的であった穂高も、やはり例外ではなかったのかもしれない。「社会はたやすく変わらない。雨滴が岩を穿つが如く、死屍累々の犠牲の果てに、やっと変化の兆しが訪れる」といった認識は、ある意味「リアリスト」だが、寅子と口論になって「お腹の子に障る」と穂高がたしなめて、トラが「なんじゃ、そりゃ」と落胆する場面。婦人弁護士はもう自分だけ、と法曹の道を諦めざるを得なかった仲間たちの思いを背負っている寅子にとって、いちばんの味方のひとりだと思ってきた穂高の反応は、それこそ「お腹の子に障る」ほどショックだったかもしれない。
 
○5月23日
懐妊が知れると、よかれと思って仕事をセーブするように助言してくる周囲の男たち。「女の弁護士はまた生まれる。お前は男に守ってもらう道がお似合いだ」と、彼女なりの気づかいかもしれないが、寅子を突き放すよね。寅子は「地獄の外」に出て、家事にいそしみ、子どもを育てる、もう新聞を読まない平穏な生活に入る。法律事務所に辞表を出して帰宅し、部屋で六法全書を見て泣く寅子。このドラマで、初めて寅子の涙が流れた場面ではないか。
 
○5月24日
赤紙が届いたら「おめでとうございます」と言い、出征時には万歳三唱で見送る。この「儀式」の内実はどうだったか。クリント・イーストウッド監督『硫黄島からの手紙』では、身重の妻のお腹に「誰にも言ってはいけない。必ず生きて帰ってくるから」と語りかける男が描かれる。若松孝二監督『キャタピラー』では、四肢を失って復員した男が「軍神様」と呼ばれ忌避される。優三は「トラちゃんは後悔のない人生をやりきってください。それが僕の望みです」と寅子に言葉をかける。本心を明かすのが「非国民」扱いされることもある時世に、ひとりの人として、相手に対する時に出る言葉の優しさ。「全体主義」へのプロテストを感じる。
 
○5月27日
日本のドラマや映画で描かれる戦争は「銃後」であることが多いが、塚本晋也監督『野火』を観た者は、戦場は文字通り「地獄」であったことを知る。寅子たちの地獄が「精神の地獄」なら、戦死した直道の地獄は「肉体と精神の地獄」であった。疎開先から上野に寅子たちが戻った際、少しだけ現実の上野周辺と思われる映像が挿入される。東京大空襲は、これまで「戦争の気配」を漂わせていた本作でなされた、初めての直接描写だったろう。生きていくために物を買うヤミ市は、塚本晋也監督『ほかげ』で描かれる。「敗戦」ではなく「終戦」とナレーションが入ったが、原爆投下に触れられていないことも含め、制作サイドの「配慮」なのか。
 
○5月29日
直言が寅子に優三の死亡通知のことを隠していた理由が、「今、トラに倒れられたら、うちはもたないと思った」からというのは、ちょっと虚をつかれた感覚だが、「家」を思う家長の発想だ。花江が「猪爪家の人間でいられること」に安堵するのもそう。権威的かつ抑圧的な家父長像とはズレた直言ではあったが、寿命を悟った父親は、やはり父でありかつ夫としての姿勢を示すのだ。「責任感」と言ってしまえば聞こえはいいが、それが家族成員の自由を制限する局面では、支配に転ずることもあるだろう。
 
○5月30日
大江健三郎が、自分の文章の手本だと語っていたのは、1947年に文部省が発行した中学生用社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』だった。寅子は、焼き鳥を包んでいる新聞に載っていた「日本国憲法」を読む。よねは、ふと開いた新聞の明律大学女子部設立の記事に、希望を見出す。戦中の言論弾圧と裁判で戦う場面といい、出版物に大きな意味を持たせているドラマだ。それは、憲法の「思想・良心の自由」不可侵規定への信頼だ。
 
○5月31日
干支は12年で一周する。前回から第一回目の冒頭シーンに戻っていたが、「寅」年からはじめると、10年で「亥」年へ。今週が9週目だったので、次週で戻る。と言うか、また新たにはじまる。だから、OP曲もラストにまわった。
新憲法公布で、身分も性別も関係なく差別されない、つまり、人権が保障される。男が大黒柱にならなければ、などということはない。家族各々が柱になればいい。「家制度」は終わった。皆に送り出されて、直明は大学へ。寅子は裁判官になるべく、桂場の元へ。


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