朝ドラ『虎に翼』についてのBlueskyポストまとめ(3) 2024年6月

(気になった、もしくは自分が何か書けそうな回のみ感想をポストしています。日付はポストした日のため、必ずしも本放送日回と一致していない場合があります。また、ポスト時の感想に一部加筆、修正しています)


○2024年6月3日
日本国憲法に「男女同権」の理念を込めたのは、GHQのベアーテ・シロタ・ゴードンだった。「女性が特別扱いされるのは、前と同じか」と落胆気味の寅子だが、それまで権利を制限されていた女性が同等になる、ということは、社会がそれを当然視するようになるまでは、当面「特別扱い」になるのは、やむを得ない側面があるだろう。
ライアンこと久藤頼安の振る舞いは、小橋の言う通り「アメリカかぶれ」に見えるかもしれないが、日本の偏狭さに飽き飽きした先進的な「殿様」の憧憬が向かった先が、アメリカだったのかもしれない。
 
○6月4日
歴史学に「ディリングハムの欠陥」という言葉がある。「現在の視点で過去を見て判断してしまうことに伴う誤り」を指す。帝大の神保教授のような「大日本帝国憲法の亡霊」は、たしかに「因習の塊」に見えるが、敗戦後の占領期にあって、日本の「古き良き伝統」が破壊されることに強い危機感を抱く人々はいただろう。それを一笑に付すことはできない。が、その古き良き伝統なるものが、誰を犠牲にしてきたか、はよくよく考えてみなけばならない。
とは言え、アメリカの「民主化と非軍事化」を軸とした占領政策は、朝鮮戦争に向かって「逆コース」となり、日本は翻弄されることになる。
 
○6月5日
「大日本帝国憲法の亡霊」のように思われた神保教授も、敗戦国である日本が変化していかざるを得ないことは理解している。だが、それがあまりに性急すぎることによる混乱を懸念している。ライアンが言う通り「保守のお手本」だ。婦人代議士たちとの会合で、気後れしてしまう寅子。一度は法曹の道を断念したことで、彼女はずっと「スンッ」に呪縛されている。また、戦死した家族や安否不明の仲間たちを思って、元「敵国」アメリカの人々との接し方に戸惑っている。
寅子を「猪爪くん」と呼ぶ穂高。ハーモニカを吹く傷痍軍人に投げ銭する花岡。狭い法曹界で、かつての恩師や知己と会い、戦争を経て変わったものと変わらないものを知る。
 
○6月7日
「学問知(専門知)」と「生活知(常識知)」という区分があるとすれば、保守的な神保と、一見進歩的に見える穂高は、「学問知」においては正反対の立場であるが、「生活知」においては類似している。つまり、ふたりともパターナリズムが強固だ。「今、ここにいる個人としての存在」を強調する寅子を、穂高は「いつかは個人として自立できる存在」として扱う。だから、寅子の意志を等閑視することになり、「君のため」と父権的温情主義(パターナリズム)に則って諭す、という話法になる。が、それが「反面教師」になって、寅子の「はて?」が復活した。
ライアンと桂場が一献傾けるシーンはなかなか面白い。
そして花岡は……
 
○6月10日
実際に闇米を拒否して餓死した裁判官として名前が挙がるのは、山口良忠判事だ。花岡のモデルのようだ。経済事犯専任で、食糧管理法違反者の事案を担当していた。
闇米所持を裁く自分が、闇米に手を出してはいけない。この倫理観は妥当か。「行為功利主義」と「規則功利主義」の観点で考えてみよう。どんな行為により人が幸せになるか=行為功利主義に立てば、国が管理する配給のみで生きていくのが不可能に近いなら、現実にそぐわない法は破られてもやむを得ない、となる。花岡は、どんな規則が人を幸せにするか=規則功利主義に立ち、闇市場を利用しなかった。日本は、この規則功利主義に親和的だ。
轟は、友愛以上の友を失った。
 
○6月11日
家庭裁判所設立準備室室長の多岐川が言う通り、闇米を口にせずして生きてこれた者などいない。それが現実なのは寅子もわかっているが、花岡の「なりたい自分になる」という理想に共鳴し、自身もそうしたい、と思っているであろう彼女には、花岡を侮辱するのは許し難いことだ。
規則功利主義(どういう規則が人を幸せにするか)に立つ法曹は、しかし、行為功利主義(どういう行為により人は幸せになるか)の観点も取らねばならないこともある。多岐川は清濁併せ呑むタイプかもしれない。水と油がくっつくが如き家庭裁判所の父にふさわしい。
 
○6月12日
ロバート・ゼメキス監督『キャスト・アウェイ』で、無人島に漂着しサバイバル生活を送った主人公が、元の生活に戻った場面が描かれる。無人島での火起こしの苦労に比べ、簡単に火がつくライターがある便利さ。炎を見詰める主人公。いったん〈社会〉から離れた者が、〈社会〉に帰還した時に味わう名状しがたい「違和感」。多岐川たちとのレストランでの酒宴で、花岡が餓死してから1年ほどで、もう食べ物に苦労することもなくなったことを噛み締める寅子。花岡との食事を思い出す。
敗戦後、日本はGHQの占領期間に様々な「改革」をされた。威厳を示すためにもったいぶった暗い裁判所から、明るいオープンな家庭裁判所へ。闇は消える。
 
○6月13日
かつての「盟友」だからこそ、日本人と結婚した新しい人生において、寅子との関わりを断つ香淑。「トラちゃん」の性格を知っているからこそ、自分に関わることが、寅子のためにならない、と思っているのかもしれない。多岐川が言う通り、「この国に染み着いた偏見を正すこと」の困難さ。かつての「宗主国」と「植民地」という関係の濃い影が落ちる。
桂場は「正論は純度が高いほど強くなる」と言い、寅子は「私の正論は純度が高くないと?」と反論していたが、つまり、見栄や欲が混じらない「無私」が人々の心を動かす、ということなのかもしれない。「愛の裁判所」は、そうしてこそ生まれる、と。
 
○6月14日
魔夜峰央のマンガ『パタリロ!』の主人公パタリロは、傲慢でがめつく、自己中心的な、本当に「イヤな奴」だ。「常春の国」マリネラの少年王で、つねに軍服を着ていることからもわかるが、実は独裁者だ。タマネギ部隊は、秘密警察の機能を有している。独裁者が主人公の、世界でいちばん長く続いている物語かもしれない。が、なぜギャグマンガとして成立するか。それは、パタリロが「子ども」だからだ。大人がやったら許容されないことが、子どもなら許される。「価値の転倒」が子ども視点で描かれるので、ギャグになる。
直明の凛々しい姿、キラキラとしたまっすぐな瞳が、「大人の事情」を取っ払わせる。青年の力が、大人を動かす。
 
○6月18日
家庭裁判所の五大性格「独立的性格」「民主的性格」「科学的性格」「教育的性格」「社会的性格」のうち、特に戦災孤児たちの処遇に関わる性格は、「教育的性格」と「社会的性格」だろう。戦争の傷痕として表れる社会の「問題」のうち、子どもたちの問題に向き合うのは「愛の裁判所」である家裁であるのはもちろん、彼らを保護する協力者が必要だ。生きていくため、小さい子らにスリ等をおしえ、束ねていたと思われる道男。貧困のため、親に売られそうになったよねは、彼らに幼い頃の自分を見たのかもしれない。
安易に「母性」とは言いたくないが、寅子が家に連れてきた道男を受け入れたはるには、やはり母性の強さを感じさせられる。
 
○6月19日
はるは、直道と道男を重ね、何か力になりたい、と思っていた。戦災孤児には姓がない。名前だけで呼ばれる存在だ。姓がない存在として私たちが知っているのは、たとえば天皇だ。このドラマには、終戦時の玉音放送のシーンがなかった。姓がない、とは、両義性をまとっている、ということかもしれない。聖であり、俗でもある。善であり、悪でもある。今のところ「不在」である天皇に代わり、分身のような戦災孤児がいる。それは考え過ぎだろうか。
ロラン・バルトが『表徴の帝国』で指摘した、皇居はこの国の「空虚な中心」だ、との言葉。このドラマのメインが家庭裁判所にまつわる物語だ、と思うと、少し考えさせられる。
 
○6月20日
旅館の仲居時代、直言に見初められ、周囲の反対を押し切り結婚。穂高が仲人。直道はお調子者だが気の優しい息子で、花江と結婚。「お母さんみたいになりたくない」と寅子に言われ、傷ついたこともあったが、しかし、結局は娘のしたいようにさせた。「地獄」と知りながら、その道を行かせた。寅子は書生の優三と結婚。戦争を経て、夫と息子と義子を失ったが、多くの家族に見守られ逝去したはる。道男に直道を重ねたのかもしれない。はるの人生は、本当にケアギバー(ケアする人)のそれだった。男性優位の社会の中で「スンッ」を引き受けてきた人生だった。それに「はて?」と疑問を呈し続けてきた寅子だったが、いちばんの支えは母だった。
 
○6月21日
道男の口元にある痣は、スティグマ(負の烙印)だろう。「周囲の人々とは違う」ことを表す記号だ。花江に謝った彼は、「猪爪家のひとになりたいと思った」と言った。スティグマを消すには、「適応」が必要だ。社会に参入すること。それで「差異」は解消されていきはする。
「いついなくなるかわからん奴の言葉は届かない」。よねは、轟が言う通り、寅子が同じ道から去った時、心底傷ついた。
亡くなったはるは、自分がいなくなった後々のことまで案じて、手帖に書き残していた。ひとは、いつか世を去る。「どう去るか」にそのひとの本質が表れるのかもしれない。
「死と喪失」をめぐる回であり、また「社会化」を問う回でもあった。
 
○6月25日
梅子が遺産相続を放棄しないのは、彼女が法を学んだからだ。法の理念に則って、改正民法の精神を尊重し、権利は放棄しない。そして、また、光三郎を連れて家を出奔したが、見つかって連れ戻され、徹男が倒れたことで、世話をさせるため、離婚を反故にされた。理不尽この上ないことだ。こうした、妻をないがしろにする悪弊を変えたい。そんな思いもあるのかもしれない。
寅子は「梅子さんは、新しい民法のことがきちんと頭に入ってるんだ、と思って、嬉しかった」と言った。梅子が、人生でいちばん輝いていた頃。明律大学で、寅子たちと法を勉強していた時期だ。法でつながる友情。そんな友情もあるのかもしれない。
 
○6月26日
僕の母は四姉妹の四女で、祖母、つまり彼女の母は死の間際、いちばん頼りない長女の今後を心配して、母に懸念を伝えたそうだ。当時、長女、つまり伯母は、おそらく40代後半ぐらいだったと思う。
大庭家の長男・徹太は徹男に似た性格で傲慢、三男の光三郎はお人好し、次男の徹次は戦争での負傷で、復員後、働かず酒に溺れている。梅子にとって、三兄弟みな心配なところがある。徹太は民法の改正は知っていても、理解していない。「家制度」の因習を引きずっている。常は徹太の妻が自分を馬鹿にしている、と感じ、光三郎の扶養に入りたい、と言う。徹男が梅子を小馬鹿にし、徹太の妻が常を馬鹿にする。実は同じ構造なのだ。
 
○6月27日
光三郎が言うように、妾のすみれにも、そうして生きるしかなかった事情はあるだろう。梅子は自分なりに「良妻賢母」たらんと努力してきた。だから、他責はやめて、各々自分の行きたい道を行けばいい。全てに失敗したと観念した時、梅子を支えたのはやはり「法」だった。民法第730条は、保守派の神保教授が、「伝統的価値観」に拘泥して維持させた条文だ。梅子は「家」から離脱することで、兄弟にその拘束をはめる意趣返しをした。
 
○6月28日
「お国のために立派な兵隊たらん」として戦死した直道や優三。「家族のために良い母たらん」として倒れて亡くなったはる。梅子は、たしかに他者のために尽くすことは尊いが、犠牲になってはいけない、ということを身に染みてわかっている。その気持ちが花江に伝わり、「手抜き要望」になったのだ。肩の荷を少しだけ下ろしてみると、道男が来ない日でも、直道が夢に現れる。
花江の結婚式、明律大学女子部での自己紹介、女子部時代の回想。寅子が「モン・パパ」を歌う時は、何かターニングポイントにさしかかった時だ。終わりと始まりの間の目印。
 

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