神様について

私は、この1月末ごろから自然をモチーフにしたペインティングやファブリック作品を制作している。

木の断面を模倣した絵画と、同じく木目の模倣をした、毛糸を用いるタフティングと言う手法で作ったもの。ここでは簡単に作品をラグと呼ぶことにしておこう。 タフティングは、北欧などの寒いところで生み出された技術だ。布に対して数本の糸や毛糸の房を縫いこむことでブーツや手袋や絨毯など身の回りのものをより暖かく作り込むことができる。オランダでペインティング制作を続けてきたからこそ出会えた手法かもしれない。

そして、もう一つ高さ4m近く、幅3mほどの壁に山の絵を描いている。

”自然の畏怖を描きたい” 2020年の年末を実家、日本で過ごしてから自然と体が欲した衝動がそれだった。同時にこれまで自分が描き続けてきた抽象画の色遊びたちは自然画だったのだと気づいた。日本で見た山は体感してでしかわからない畏怖の念と、安心感があった。父のような手に届かない偉大さと優しさと有無を言わず許してくれる存在だった。山と私の距離感は想像以上に、必要なものだった。ドイツ、フランス、スイス、オーストリアの山々も見てきたが、違いで言えば、あの小さな島国という面積の中で自分と対象の山と向き合う密度にはやはり圧迫される何かがあるのだろう。

あの島という大陸で、限られた言語と思想を持つ人々の中での私と山という密度にも何か特別な精神性があるのかもしれない。


そしてオランダに帰国後のここ数ヶ月、周りのオランダやドイツからきた友達から日本のことを教えてもらっている。”幽玄”と言う言葉にまつわるアイデアや、神道のことから世界大戦や宗教観のこと。この並びに置ける相関性を説明するのはまだ勉強不足です。ヨーロッパから見えた日本を通して私は、自分が生まれ育った島国を再認識しているところだ。

そうしている間にどうやら、私は自分がなぜ自然の畏怖を再現しようとしているのか見えてきそうなのかもしれない。(視覚化活動をしているのに言語化活動が追いついていないのでわかっていない。)(それとも、あまりにもアンビエンスな主題に手か目か頭か回りきっていないのかもしれない。)


わかったことは、人間には何かを統一、統制するために争う傾向があるということ。私はその欲求を信仰心だと思う。現代日本では人の神を笑うのはよくあることだけど、そんな自分も自己認知していないだけでパートナーに自分の信仰を強制したりされたりとか。そうやって、自分の信仰を貫きたいが故に他者を統制したくなる。そうやって争いが始まったり、テロリストや独裁者も彼らなりの平和像を描いた結果が崩壊だったりとか。彼氏彼女の関係もそれが窮屈ではなく、理想郷なのだろう。(理想郷の追求のためのトライ&エラーかな) つまり、信仰心が愛だったりする。恋愛関係でも、戦争の歴史からも、これは日本も世界も変わらない。私は信仰心と愛は人種や思想を超えた同じ人間の特性だと思った。

じゃあ、それをいろんな名前や形でカテゴライズしようとするからややこしい。なんとかさまの神とか、結婚とかパートナーとかとかめんどくさいよね。異なる言語間で考えてみても、描写する言語は違えど対象や意思に嘘はない。

で、”行き着いたのが山のせいにしてまえばいいやん”(伊吹山とかでいいんじゃん)という考え。愛や神は自然でいいじゃん、という見事に日本で生まれ育ったことでか神道的思考回路ができていたようだ。

山を描くことによって、また自然を再現することによって信仰心の一対象としての認識づけができたらと願っているのかもしれない。 同時に、個人がそれぞれ「敬意、信仰を想う空間」を心の中に覚えることで世界平和が達成できるのかなあなんて。


何が幸せかなんて科学的数値を示す努力までするつもりはないけど、いつも祖父の仏壇にありがとうと手を合わせる祖母はとても美しく強いと想った。