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私はどんな「華道家」でありたいのか

今は自分のことを「華道家」と名乗っています。

「華道家」と聞いて多くの人がぱっと思い浮かべるのは、假屋崎省吾さんなのではないかと思います。私はプレバトで彼が担当する、芸能人がいけばなをするというコーナーが好きで、時々時間が合えば見ています。そして、私は、会ったこともないくせに、一方的に假屋崎さんのことをとても尊敬しています。(ちなみに日本で初めて自らを「華道家」と名乗ったのが假屋崎さんなので、私はそれに乗っからせてもらっている、というわけです。)

いけばなを華やかで動的なアートにした、とか、彼がやってきたことの偉業はたくさんありますが、個人的にすごいなと思っているのが、「いけばな」と「エンタメ」という世界をつなげたこと。

それは、番組での彼が芸能人がいけた作品を手直しするシーン一つをとっても徹底しています。手直し自体はいけばなの世界でもずっと行われてきたことなのですが、彼の手直しの仕方が、ちゃんとテレビを意識した手直しになっています。その場にはいない、テレビを通じて見ている人にもちゃんと違いがわかる、はっと目を引く大胆な手直し。「葉を一枚取る」「枝の流れを少し整える」という、ほんのちょっとした手直しで作品がぐっと変わるというのは、いけばなの本質でもあり面白いところなのですが、そういうさりげない手直しだと、いくら本質だったとしてもテレビという2次元の画面で見ている人には伝わりません。

また、その大胆な手直しを、一瞬でやる。こっちもあっちも直して、というのは、お稽古ではよいですが、テレビで見ている人たちは飽きてしまうから。まさにエンタメ、テレビというメディアにぴったりの手直しなわけです。

あとは、ご自身のキャラクターも軽快なトークも「いけばな x エンタメ」をそのまま体現されている、そこも素敵だと思います。また彼の作品はとにかく華やかで見ていて楽しい。キャラクターや活動の両方で、エンタメという文脈においていけばなを再定義し、さもなくばいけばななんて絶対接点を持たないたくさんの、本当にたくさんの人に、いけばなの魅力を伝えている。(なお、個人的には、いけばなは才能ではなくて心のありようだと思っているので、「才能あり」「凡人」「才能なし」と採点するプレバト形式はどうだろうとは思いますが、でも見ていて楽しいことが求められるテレビのエンタメとしては、あれも一つの形ですよね。)

はて、翻って、自分は何なのか。何をもって「華道家」として生きていこうとしているのか。

独立した頃、「華道家」として活動するからには、なんかすごい「作品」をつくらなくてはいけないのでは、という、焦りのようなものもありました。正直、今もその焦りはどこかにあります。それこそ假屋崎さんが個展をやっているように、すごく大きなどどーんとした空間いっぱいの作品。見た人が「わあ、すごい」と思うような作品。そして、いつかホテルやレストランでいけこみできるようにならないと、と。

しかしこれが、なかなかしっくりこないんです。というのも、この20年間、途中脱走したりしながらもずっといけばなを続けてきたわけですが、なぜ続けてこれたのか、というと、花をいけている時間が、とても自分にとって貴重なものだったから。そしてそれは、自分がどう「いける」かではなく、心をまっさらにして花の声を聞き花を「いかす」という時間だった。ただそれだけなのです。だから、人に見せることを前提としたどーんとした作品を作る、ということが、どうにも自分の中の「いけばな」とうまく重なっていかない。

あとは、大きな作品となると、木を組んだり、設営したり、と、大工仕事的な作業も必要になったりするのですが、これが全くの苦手分野。かなづちで釘をうつのすら、釘を自分に打っているところを想像して震えてかなづちを持てないぐらい、できない。設営時には必須の車の運転ができない。というかそもそも車の免許すら持ってないし、という情けない現実もあります。

いけばなの精神を現代に合った形で伝えるIKERUを開始して1年半強。その背景には、経営学でも、不確実な時代における主観や感性の重要性が説かれ、マインドフルネスとリーダーシップの相関が実証されてきているなど、いけばなでやっていることがビジネスにも求められているのでは、という思いがありました。そして、実際に個人向けレッスンや企業・学校でのワークショップをやるようになり、おそらく数百名ぐらいの方がIKERUの場を体験してくださっていますが、そこには自分が当初考えていたよりはるかに深く、花に向き合い花をいかすという時間を楽しみ歓びそして学んでいる姿があります。「いけばな x ビジネス」は求められているし、自分にしか伝えられない人たちがいる。仮説は確信に変わりつつある。

一方で、この1年半は、私自身が、いけばなの中にある叡智の大きさに改めて気づかされてきた日々でもありました。そしてその叡智は、花をいけるという過程や、その結果としての作品に留まるものではなく、まさに人生の叡智である、と。

なので、華道家なんだからすごい作品を作らなくっちゃ!ではなく、私自身が、いけばなから謙虚に学び続けること。いけばなの精神を、花器と剣山という世界を超えて、自分の人生において日々自ら体現していくこと。それが自分にとっての「華道家」なんだろうな、と、ぼうやりと思ったりしています。

英語ではわかりやすいようにと思ってIkebana Artistと言ってますが、どっちかというと、Ikebana Monkみたいな感じ。いけばなの精神を体現している人になり、「あの人のところに行くと、いけばなの叡智に包まれる感じになるよ」みたいな感じ。そして作品も、「あの人の作品の前に立つと、気が整うよ」みたいな感じ。そんな、生き方、花との向き合い方をしていくべく、今日も家を掃除してます。

Photo by 玉利康延

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