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和ハーブのいろは0 ”自然”観の出発点&これから 『哲学の自然』『波動の法則』など
毎年8/2、湯花神事が行われていた
須賀神社
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夏至の頃の喜多見氷川神社
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![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58122695/picture_pc_631353e4b34395c7a7c8fafaea1a8804.png?width=800)
🐝
”自然”観の整理が必要だという意識が、予てから内奥にあり、筆者として、今後の思索の出発点について少し残したいと思います(視座の表明)
色々参考書籍並べておりますが、概念の理解・解釈等はさておき、結局初めに一番大切なことは、
人間である己(我/自意識)以外の存在、人間以外の他者(有機物も無機物も、地球、森羅万象..一見無なる空間さえ)にもすべて、
意識がある、波動がある、と感じる――目を閉じてさえも、感じられる――”こころ”
なる何某かを内に持つこと あるいは、
すべての存在は、魂/たま/霊によってできている
すべての存在には、魂/たま/霊が宿っていると、全感覚で――
五感、時には第六感のような感覚も、理性・感性・知性・霊性といったチャンネルすべてを開いて――要は手放しで
自意識を祓いながら、感受する 受け止めていくことでしょうか?
直観で、そんな風に思えている者です
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本noteで挙げる書籍『哲学の自然』は、2013年3月出版の対談本です。対談自体は2012年1~2月実施の、つまり時事に絡む話題は日本社会がまだ東日本大震災の翌年、といったフェーズにあった頃のもので、
月日が経っているようにも見えますが、両(中沢新一・國分功一郎)先生方の、御視座の根幹にかかる部分については、今尚自身にとって響き刺さるエッセンスが感じられており、何だか呼ばれている予感がしましたため、ご参考&ご紹介までに、一度引用させていただきます
転記の方が長くなり、毎度筆力不足で恐縮です
🐉
食 人の身体は植物からできている
薬 健やかさを支える植物たち
色 匂い立つ生命の彩をいただく
浴 日本の宝の習慣”香温浴”
繊 紡ぎ綾なす草木の縁
粧 魅力を引き立て隠す術
礼 神を導き仏を癒し邪を払う
環 場を”整える”植物たちのちから
材 暮らしの基本は草木が造る
毒 毒と薬は”紙一重”は先人の知恵
『和ハーブ図鑑』古谷暢基・平川美鶴(著)/一般社団法人和ハーブ協会 (編集・発行). 2017/8/26. p.4-13. 「序章 和ハーブと日本人の暮らし」 より
(主要テキストや"和ハーブ"そのものの詳細、ご案内は、別記事(和ハーブのいろは 1~)でさせて頂いております)
『哲学の自然』とは
参照書籍:『哲学の自然(atプラス叢書03)』
中沢新一・國分功一郎(著). 太田出版.
2013.3.8. p.248
出版社HP紹介文より(★部は本書より転記/太字化筆者による)
3.11以降の新しい「自然哲学」は、「哲学の自然」を取り戻す試みであり、自然も含めた民主主義(まさに「どんぐりと民主主義」! )を目指す運動である。
哲学は、自然について考えること、自然を発見することによって始まった。アリストテレスは最初の哲学者たちのことを「自然について語った人々」と呼び、「神々について語った人々」と区別することで彼らを定義している。
★無論、「自然」と言うとき、一体この語が何を指しているのかが最大の問題である。そこには、現象の総体という意味もあれば、物事の本性という意味もある。だがこの語をどう定義するにせよ、/★
新しい自然哲学は、「自然環境」という意味での「自然」をも含み込んでいなければならない。広い意味でも、狭い意味でも、自然なるものにアプローチする新しい哲学が必要なのだ。――國分功一郎「まえがき」
問われているのは、民主主義とは何かという本質的な問題です。ギリシアの時代から、民主主義には特殊利害を共同利害にすり替えるという問題がつきものです。ギリシアでは奴隷も女性も民主主義から排除されていました。これはいまの民主主義でも同じです。なにせ民衆と動植物が入っていないんだから。――中沢新一「第IV章 どんぐりと民主主義」
『哲学の自然』全体観📘 本書目次より
【目次】
まえがき 國分功一郎
第I章〈原子力時代〉から先史(プレヒストリー) の哲学へ
グリーンアクティブともうひとつのインターナショナリズム/原発信仰と「贈与性」の抹消/「市場(イチバ)」から「市場(マーケット)」へ/ハイデッガーの技術論と量子力学/哲学と考古学の出会い/人間と自然の最適解/ラジカリズムと「普通」のこと
第Ⅱ章 新しい自然哲学に向かって
原発に対置されるべき原理とは何か/ハイデッガーと東洋の賢人/ピタゴラス的転回とイオニア自然哲学/幾何学と数学の起源/自然の脱構築不可能性/ラスコー壁画と芸術の起源/二一世紀の自然哲学/祝島モジュールと群島モデル
第Ⅲ章 野生の科学と「不思議の環」
デモと花火大会/脱原発のロードマップ/自然史過程と弁証法/野生の科学と「不思議の環」/「語り得ぬもの」にノックする/社会は複雑だということ/エドマンド・リーチのレヴィ=ストロース批判/ふたたび、人間と自然の最適解について/ニヒリズムを超えて
第Ⅳ章 どんぐりと民主主義
道路問題から民主主義を考える/自然との民主主義と非敵対的矛盾/政治的なものの再興/具体的なものと場所性/民主主義と直観知/後記
あとがき 中沢新一
はじめに 線引き
頭から”哲学”の文字を出し、さも普遍的な自明の真理にかかる用語のように載せてしまいましたが、筆者(私)自身としては、初めから”哲学なる真理ありき”、ではなく
日本列島において”哲学”の2字で表される内容・語義とは、
そもそも当初のコンテンツは、以下の木田元先生(1928.9.7 - 2014.8.16)の御視座をも加味して、俯瞰して捉えた方が、バランス良く受け止められるものかなと、考えております
わたしは「哲学」を勉強し、大学でも「哲学」を教えてきたわけですが、以前から自分のやっている思考作業は、「西洋」という文化圏で伝統的に「哲学(フィロソフィ)」と呼ばれてきたものの考え方とは、決定的に違うところがあると思っていました。よく日本には哲学はなかったと言われますが、わたしもそう思いますし、哲学がなかったということを別に恥ずかしいことだとは思いません。「哲学」というのは、やはり西洋という文化圏に特有の不自然なものの考え方だと思うからです。
『反哲学入門』 まえがき p5
(バランス良く‥つまり文明観における自分軸を持ちつつ、過去の人類の叡智を遍く受け止め、今を生きる人間として腹落ちさせながら、同時に次の視野も見ていける、ひとつの簡易的定点or動的メルクマール(目印、指標)‥とでもいえますでしょうか)
「哲学」とは何か
すでにお分かりでしょうが、今世紀の思想家たちは、「哲学」というものをどの文化圏にも、どの時代にもあるような普遍的な知の在り方と見るのではなく、これを「西洋」という文化圏に特有な、しかもその西洋においても――たとえそれがどれほど永い期間であるにしても――ある特定の歴史的時代に特有な知の在り方と見ているのです。
『反哲学史』 はじめに p.11
以下の箇所は、”自然”観の考察にあたって、『哲学の自然(atプラス叢書03)』の前提にも繋がる大切な視点だと思い、また、木田先生の、本質を”鷲づかみ”(by 同書解説 三浦雅士氏)し語られる手腕‥お凄さにはとても敵わず、、ひとまずこのまま更に引用致します
(…)たしかに日本にも、人生観・道徳思想・宗教思想といったものはありました。そして、西洋でも、こうしたものが哲学の材料にはなっていますが、これがそのまま哲学というわけではありません。
「哲学」という言葉の由来や性格や意味についてはあとでゆっくり考えなければなりませんが、いまは哲学とは、そうした人生観・道徳思想・宗教思想といった材料を組み込む特定の考え方だということにしておきましょう。あるいは、哲学とは、「ありとしあらゆるもの(あるとされるあらゆるもの、存在するものの全体)がなんであり、どういうあり方をしているのか」ということについてのある特定の考え方、切り縮めて言えば「ある」ということがどういうことかについての特定の考え方だと言ってもいいと思います。
こうした考え方が、西洋という文化圏には生まれたが、日本には生まれなかった。いや、日本だけでなく、西洋以外の他の文化圏には生まれませんでした。というのも、そんな考え方をしうるためには、自分たちが存在するものの全体のうちにいながら、その全体を見渡すことのできる特別な位置に立つことができると思わなければならないからです。
いま、「存在するものの全体」を「自然」と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた「超自然的な存在」だと思うか、少なくともそうした「超自然的存在」と関わりをもちうる特別な存在だと思わなければ、存在するものの全体がなんであるかなどという問いは立てられないでしょう。自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切っていた日本人には、そんな問いは立てられないし、立てる必要もありません。西洋という文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照しながら自然を見るという特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考方法が哲学と呼ばれたのだと思います。
『反哲学入門』
第一章 哲学は欧米人だけの思考法である p22-24 より
≪point memo🖊≫
・「哲学」とは、西洋(欧米)特有の知の体系である
・(一般的によく混同or同一視されている認識🦆)
「哲学」とは、「人生観・道徳思想・宗教思想」と同義ではなく、それらを組み込む、特定の考え方、枠組みを意味している。「人生観・道徳思想・宗教思想」は、構成要素の一部は成すが十分条件ではない
・「存在するものの全体」とは何か――と、この問いを立てうるだけの、「超自然的な存在」との関わりの意識が、そもそも背後にある。「哲学」とはそんな世界の見方、思考の枠組みのことである
→一神教を意識
(言い換え)
・「超自然的な存在」との関わりの意識を、背後に秘めながら、自然を「存在するものの全体」として捉える”自然”観が、ある
・対して日本人は、自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切っていた
→日本列島の先人たちが育んできた眼差し、
集合意識とは、異なる
”自然”観、も含めて
🌳
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58141520/picture_pc_397fc1ceea9d968c3d6741dc37efa29a.png?width=800)
更に、2021年8月現在、日本列島に生まれ育った人間として、あらゆる角度で現象を俯瞰して見ていくと、究極的には、波動エネルギーの存在を無視できない視座にどうしても誘われます
思うに、過去数千年の人類の、”哲学”なるものの整理も、ある意味、宇宙規模では捉えられない眼差しによる、現象界の分析的行為に留まっている可能性もある
(ぶっとんだ連想のようで引かれる方もいらっしゃると思いますが、筆者の中で繋がって見えてしまっているので、『波動の法則』をちらり↓)
全てを現象でとらえようとする現代地球文化
地球の文化は「目で見て確かめる」という方法を基本的に行っていますから、(・・・)このように、現代地球文化は宇宙の仕組みを全て現象でとらえています。
(・・・)
「波動」のエネルギーそのものが、宇宙の全ての現象を起こしているということを理解しない限り、最終的に中性子と陽子がどういうものであるか、「意識」と「意志」との関係も、今の文化の状態ですと辿り着けない状態なのです。
要するに現代文化は、宇宙の全ての現象を私達の五感をもとにして理解しようとしています。
ところが五感というものも全て波動であり、しかもその周波数は大変低い範囲で限定されていることが(・・・)おわかりいただけると思います。
足立育朗『宇宙からのメッセージ 波動の法則 COMTEMPORARY WORLD CULTURE AND ITS FUTURE』1995.12.29.PHP研究所/電子書籍版2017.8.16.ナチュラルスピリット. 第二章「波動」と現代地球文化 p.58-60 より
詳しい法則の説明はここではとてもできないので、ご興味ある方は、ぜひ
(↑補足:『第八章 病の本質』、地球上の現況にとって今リアルタイムで肝要な観点かと思われますので、本記事末尾に一部引用させて頂きます(参考4)。必要とされる方に届きますように)
(↑補足:『波動の法則』と併せ、千賀一生氏『ガイアの法則』等を幅広く視野に入れ説明されている方の動画テキスト版です。イメージが湧きやすいかと…もし、ピンと来られたら、動画もお勧め)
**筆者なりの、大切なキーワード
陽子=意志=愛
中性子=意識=調和
そして、感謝するこころ、祈りの波動
🌎
故に、飛躍して方針だけ申しますと、”哲学”に触れながらも、その指すところが常に『波動の法則』を背後に秘めているだろうこと、従来の”哲学”的意識を超えた、より上位の法則的理(ことわり)が宇宙にはあるだろうこと――それらの可能性を感じ続ける視座(のヨハク?)を、筆者は持っております
更に‥予感では、少なくとも日本列島における前近代までの知(身体知/口承知..)、古代に遡って見えてくる知というものの中に、『波動の法則』へと向かうヒントが秘められている気がしているのです
以下、このスタンスで、ご紹介を進めます
第Ⅳ章内「自然との民主主義と非敵対的矛盾」より「いま実際そこにあるものとどうコミュニケートして、どう自分が変わっていくのか。」
『哲学の自然(atプラス叢書03)』に戻ります。本書を通読しながら、筆者は対談全体の中で、第Ⅳ章の、以下に挙げたⅣ.2及びⅣ.5について、より時間をかけてフォーカスしました。その過程を、メモがてら以下に記載して参ります
第Ⅳ章 どんぐりと民主主義
Ⅳ.1 道路問題から民主主義を考える
Ⅳ.2 自然との民主主義と非敵対的矛盾(p.214~)☜
Ⅳ.3 政治的なものの再興
Ⅳ.4 具体的なものと場所性
Ⅳ.5 民主主義と直観知 ☜
Ⅳ.6 後記
(採番筆者)
まず、Ⅳ.2「自然との民主主義と非敵対的矛盾」では、以下の中沢氏の言葉がほぼストライクで胸中に響き、私自身の指針となりました
中沢――
実は「自然」なんていうものは、それ自体としては存在していない。そこにあるのは、植物だったり、昆虫だったり、あるいは水の流れだったりするだけです。でも、そこに形成されている玉川上水も小平中央公園の雑木林も、実に自然な感じがする。だからといって、この「自然」を取り出して見せることができるかというと、それはできない。「自然」というのは、あくまで人間の頭の中で抽象化してそう言っているだけですから。
実際にあるのは具体的な動物とか、植物とかの個物です。そういったものと人間がコミュニケーションする、ということの総体をとりあえず「自然」といっているわけです。「自然」という概念が最初からあって、これを大事にしましょうという話ではないんです。いま実際そこにあるものとどうコミュニケートして、どう自分が変わっていくのか。僕が「自然との民主主義」というのはそういうことです。
『哲学の自然(atプラス叢書03)』
第Ⅳ章 どんぐりと民主主義
Ⅳ.2 自然との民主主義と非敵対的矛盾 p.220-221 より
「いま実際そこにあるものとどうコミュニケートして、どう自分が変わっていくのか。」
抽象概念に踊らされることなく、具体的に、どう関係を作っていくか
自身に照らして考えれば
今、住まわせて頂いている東京郊外の、奇跡的に緑多い場所ー野川周辺の、殆どが人為的に整備・改変された多摩の台地に、住み続けることを選択しております
「里地里山」や「里海」の環境にすぐ移住できていない、またそれらの保全・育成に直接的に参与できていない、という意味です
・語彙について今一度確認 「里地里山」/「里海」
→環境省が提示している点にも気づきあり
道中にふと出逢える植物、生き物、有機物無機物それぞれに意識を向け、来し方・今の関わりに感謝すること、お詫びし(例えば野川に人間が出したであろう泡が流れていることを🦆家族に🐢に鷺たちに)、行く末の模索に想いを馳せることしか、足元、できていない状況にある
この現況を抱えたまま、どうコミュニケートしていくのか
コミュニケート方法のひとつ、日々毎瞬間できることは、言葉を、言霊として、相手の存在にかけること(植物、その他生き物たち、有機物無機物すべてに、地球にも)
ふたつめは、”和ハーブ”の存在にフォーカスし、世界を捉え直していくこと。それを伝えること
この姿勢の先で、植物を愛で、育て、いずれ”畑活”をしていくこと
そして何より、すべての行いの瞬間に、”祈り”の意識を育み続けること
…を通して、パラダイム変換なのだろうこの大きな時代の変わり目の、与えられた数十年、魂軸で泳いでいく。地球の蘇生に向けての、共同創造を意識しながら
こんな風に考えておりました
この過程で、本書に絡みもう少し、考えたいこと
「里山に日本の民主主義の原型がある」とは
先に引用した中沢氏の言葉の、直前の数パラグラフで、展開されていた対談でのキーフレーズです
最初は、何故政治用語と繋がるんだ・・?と安易に捉え、真意にまで思いが至りませんでした。が、何度か反芻している内に、"和ハーブ"の勉強していたところ、ある日ふと気づきました
恐らく、テキストに載っている上杉鷹山の”かてもの”のお話に、里山民主主義は根っこで繋がっていると
「かてもの」とは、「糧(かて)となるもの」の意味で、飢饉に備えて普段は積極的に食さない野生素材を食料とする文化を指します。
(略)
「かてもの」の種類、またその調理法などノウハウをまとめた書は、各地に残されています。
その代表と言えるものが、寒冷地で飢饉も頻繁であった山形県南部の米沢藩で作成された、その名もズバリ『かてもの』。編纂を命じたのは、近世の名君として現代ビジネス書などでもとり上げられる藩主の上杉鷹山です。彼は野生する"食の和ハーブ"の研究とともに、土地に合った植物の栽培の研究・推進も行いました。
『かてもの』をはじめとした各地の書に記されている素材の大部分は野生植物"食の和ハーブ"。その他、キノコ類や獣肉などの記載があることも。
【和ハーブ連載】第7回
命を支えた「かてもの」文化。誕生背景と代表食材
(つぶさに知ると、物凄いお話です。この現代に、私たちの今ココ、この瞬間の足元に、このいのちの知恵は..その土地土地で治め&治められる命がけの愛は..ありますでしょうか、、受け継いでいるのだろうか😭↓)
「かてもの」は「糅物」と書き、直接の意では、主食に混ぜて炊くものとなります。しかし、この場合は、糧と同義で食糧と解釈した方が良く、実際は、飢饉救済の手引書、救荒食のガイドブックです。
天明三年(一七八三)の大飢饉に際し、鷹山公の意をうけた重臣莅戸善政が、寛政十二年(一八〇〇)側医矢尾板営雪等にはかり飢饉救済の手引きとして、享和二年(一八〇二 )に当時の領民に配りました。その刊行冊数は一五七五冊でした。
寛政四年( 一七九二 )に藩が招いた江戸の本草学者佐藤忠陵の指導助言を受けたと伝えられ、その後、奉行の莅戸が自ら筆を執って「かてもの」の原稿をひとまず書き終えたのは、寛政十二年の秋、赤湯温泉、赤湯御殿(当館)に湯治中のことでした。天明の大飢饉から数えて、実に二十年近い年月をかけた努力の結晶が「かてもの」なのです。
飢饉に備え、穀物の貯蓄とともに、それを食いのばさせる目的の救荒食物を約八十種(草木果実)選び、その調理法を具体的に述べ、また、各種の味噌の製造法から魚鳥獣肉の貯蔵法まで記したもので、これは実際、天保四年(一八三三)の飢饉に大変役立ちました。
この時米沢藩は、一人の餓死者も出さなかったのです。この大凶作は、近世東北三大凶作のひとつでしたので、他藩の飢えまで救う余力を示した「かてもの」は、名著の評価を揺るぎないものとしたのです。
さらにこの本が多くの人々を魅きつけたのは、鷹山公の施政が示す人間愛が底に流れているからだと思います。領民の健康を案じ、特に老人など弱者への労りの心情を込めて、全領民へ周知徹底するよう配慮されています。こうした日々の心がけは、今のような飽食の時代にこそ、必要なのではないでしょうか。
「かてもの」原文
凶年の備への事、年来御世話の下され候。末深き気遣ひは有るまじく、其の年次に当たらば猶も御手当ての事はいふまでもなく候へども、行立がたきものもあるべく、又二年三年つづきての不作も知るべからず。
然らば飯料は余計にたくはふべく、麦・そば・稷・ひえの蒔き植へより、菜・大こんの干したくはへまで、年々の心遣ひはいふまでもなく、其の外もろもろの「かて物」をば其相応にまじへて食ふべき事に候。然れども其の品其の製法を知らずして生をあやまる事の御心元なく、広く御医者衆におほせて「かて物」になるべき品々其の製法までを撰ばせられ候間、民々戸々豊かなるけふより、万々一の日の心がけいたすべく候。
赤湯温泉の旅館 上杉の御湯
ホーム ≫ お料理 ≫ 「かてもの」について
総説 米澤藩刊行の救荒書 『かてもの』について/高垣 順子 (山形県立米沢女子短期大学名誉教授) J-Stage
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh1994/9/3/9_3_13/_pdf/-char/ja
恐らく江戸時代(or前近代まで)の為政者において、”和ハーブ”を見る眼と、政治/まつりごとを行う眼が、分離していなかった――
更にその眼の奥には、”自分が自然のなかにすっぽり包まれて生きていると信じ切”る意識が、矛盾なく生きていただろう
🌿
この、日本列島における前近代までの視座を自覚&内包して、”自然”観自体のチャンネルを替えてみる。眼差しのチャンネルを――すると、
”主体”を人間だけに定めない認識に至るとき、”民主主義”という政体を鑑みれば、「里山に日本の民主主義の原型がある」と表現することが可能だ
🍁
筆者にとっては、”和ハーブ”の存在を通して世界を捉え直していくことは、「里山に日本の民主主義の原型がある」ことの再認識に繋がりそうです
⛰
”主体”についての、東アジアにおける、また日本列島における、来し方行く末について、参考になるもの
🌿
Ⅳ.2「自然との民主主義と非敵対的矛盾」の、p.214-220 までを箇条書きにまとめます
中沢氏言説
・日本にも民主主義の伝統があるー目に見えない形をとって。それが一番典型的に表れているものは里山(注9)
注9 人間の集落に隣接し、その結果として人間の影響を受けた生態系が存在する山のこと。
同著 p.214 より
・近世以来、日本中に作られた里山では、動植物の利害がきちんと考えられている。動植物の要求を聞いて作られている
・人間の利害だけでもし里山を作ったら真っ平で余計な植物もない空間、企業化された収益性の高い空間を作るはず
・里山とは日本型の民主主義の隠れた現れだと思っている
≪point memo🖊≫
→民主主義という政体を鑑みる際に、”自然”観自体のチャンネルを替えて(日本列島における前近代までの視座を自覚&内包して)、今現在の言葉にして捉え直している
國分氏言説
・里山に関心がある
・里山とは元々人工的なもので、技術が入っているが、技術と自然というものの間に、ある種のバランスが保たれているー「調和」と言うと聞こえはいいのだが
・人間がそこを利用し、自然もそこを利用する、「技術(テクネ―)」と「自然(フユシス)」の狭間みたいな空間が里山(-p.215)
≪point memo🖊≫
→西洋(欧米)哲学の語彙による捉え直し
中沢氏言説
・「調和」より「非敵対的矛盾」と言った方が正確
・例えば、人間と動物との関係ー求めているものは双方異なるが、敵対はしない
・互いが持っている矛盾を対話しながら練り上げていく方法が里山にはある
・人間と動物の間の調停とは、物凄くデリケートな内容であり、それを学ぶ格好の場所が里山
・日本人が守るべき貴重な思想は、里山における「自然との民主主義」ということではないか(p.-217)
・(國分氏がスピノザの専門家であることからの言及)スピノザは地上に特別な空間というものを認めない無心論
・「自然と人間とは同じ地平で一体である」というスピノザの哲学からすると、小平中央公園はスピノザ的な公園、スピノザの森
・(対して)「お入らずの森」というものが日本には古来ある。人間が決して入ってはいけない空間が形成されている。自然と水と動植物だけの世界
・スピノザの森も大好きだし、「お入らずの森」も大切に思う
・水源地に関わるような森は「お入らずの森」にする必要があるー不動産屋が入ってきやすくなり荒らされるから。スピノザの森の唯一の欠点は、不動産屋が入りやすくなること(-p.219)
國分氏言説
・「非敵対的矛盾」は重要な概念
・人間が自然に溶け込んで生きるナチュラリズムはあり得ないと考えているーロマン主義的な思い込み
・農業も、自然ではない。むしろ正反対の高度な技術で、大変な自然の改変を行っている
・キャベツー品種改良により光合成が行えなくなった葉っぱの塊、一種の奇形ーのような技術を、適当に自然が許してくれているからやっていける
・確かに「自然との調和」などと観念的に、あるいは印象的に言うのは大問題(-p.220)
≪point memo🖊≫
→國分氏が随所随所で批判的切り込みを入れている、その批判したい対象について。氏の視座を参考に、自身で考えると、社会における何某かの現象について、”〇〇を観念的かつ印象的に捉えていく姿”というのは、マスメディアによって拡散される、大衆向けの意識層(レイヤー)において散見される知、認識方法だと考えられる
🌿
”日本型の民主主義”を再認識していく過程での直観知
続けて、「Ⅳ.5 民主主義と直観知」対談内容も記載します
國分氏言説
・中沢氏の言う「具体性が重要だ」の目線について、考え続けている
・抽象的なインターナショナリズムにも抽象的なナショナリズムにも陥らずに、どういう具体性の世界を構築していくか――具体性の世界について、正面から、しかし理論的に考えなければならない。すごく難しいが非常に重要な課題だ(-p.234)
中沢氏言説
・色々なところにアイデアは出ている
・ドゥルーズの例:「表現」という概念では(『スピノザと表現の問題』という著作もある 注19)、具体性と普遍性、個、種、類というものが一体になっている。「表現」とは運動のことで、その中でこれらが結合・分離しながら新しい組み合わせをつくっていく
注19↓
・表現というものは普遍的なものが具体性の世界の中に現実化してくる過程のこと(-p.234)
國分氏言説
・スピノザは表現ということと共に「直観知(sientia intuitiva)」にも言及した。ベルクソンやドゥルーズも直観ということを重要視
・直観とは、個物そのものを具体的に把握すること←近代の分析的知が排除していったもの
・ベルクソンの引用:
ベルクソンはこう言っています。ある人についてどれだけのことが物語られようとも、私がその人に実際にあったときに経験する「端的な、分解し得ない感情」と等価なものは得られない。つまり、その人物と実際に会った場合には、動作や態度や言葉のすべてが、まるで一つの源泉からあふれるように自然のままに流れ出てくることが感じられる。そのとき、その人物の「そこなわれぬ全体が一挙に私に与えられた」のだ、と。
『哲学の自然(atプラス叢書03)』
第Ⅳ章 どんぐりと民主主義
Ⅳ.5 民主主義と直観知 p.235 より
・私たちは日常的には沢山直観しているにもかかわらずそれを大切にできていない
・直観というものをどう復権するか(-p.236)
中沢氏言説
・メルロ=ポンティのセザンヌ論(「セザンヌの疑惑」注22)は、”直観というものの復権”の問題についてまさに扱っている
注22↓
・テーマは、絵画における直観というものは何か。風景画について。本当に風景を見ているのかどうか。人間がものを見るとは何なのか
・認識とは、色々なものを捨象した時に初めて成り立つ。ニューロンが外界の情報を捉える際一定の捨象を行う。次に、その捨象した情報の組み合わせの上に分類的世界というものが作られる。画家の眼は、それとは逆に、今時分が見ている世界を捨象しないという方向に向かう。
・メルロ=ポンティにとっての直感とは、(思うに、)捨象して分類して、体系化するときにそぎ落とされてしまっている、豊穣な世界を取り戻すこと
・人間の世界は様々なものが積み重なって形成されている
上位:常識や観念 ≪抽象化の世界≫
↑
↑
最下層:感覚器官
下層から上層に至るまでに、様々なものが捨象されていく。そのプロセスを反対方向に戻していく運動をしていかなければならない。直観知とはそういう運動のことだと思う(-p.238)
≪point memo🖊≫
・”日本型の民主主義”を自覚し、創っていくためには、まず眼差しのなかに、直観知を取り入れるチャンネルを育んでいくこと
・ベルクソンの引用では、人間対人間の認識について例が挙げられていたが、”日本型の民主主義”を再認識していく過程では、人間と非人間存在との関係性を捉え直してく行為が発生する
・メルロ=ポンティがセザンヌの表したものを見(観)たように、私たちは私たちで、日本列島に古来育まれてきた顕れを見(観)、''直観というものの復権"をダイレクトに、土地に根付いた周波数の中で取り組んでいけないか..
・私たち人間が、列島の中で、ものを…(ひらがなの"もの"は、元来一体何を指してきたか?メルロ=ポンティの訳語の意と同じだろうか)何某かを、
見(観)る、とはどういうことかを、
どういう営みで今後あっていけば破綻なく命繋いでいけるかを、再考再認識できないか。列島における直観知とはなんであったか、私たちが捨象してきたものに、気づける感性/知性/理性/霊性..をこそ、復権を。――と、ひとまず、意識したい
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![画像11](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/58140668/picture_pc_b03ede8f40605419c5935d1d70505567.png?width=800)
――何を描き、創造するのか。祈りのなか、時には、コントラストを通して
🌿
≪今回はここまで≫
参照情報/参考文献:本文中に記載
使用画像:筆者撮影
曇天の景色:gallery hydrangea@曳舟に、ご縁で出逢った日本画家・谷村涼子さんの作品を観に行った帰途にて、見上げた隅田川の上の大空
ある人にとって意味のないもの
あの人にとって大事なもの
信じる事で手にする人
信じた事で失う人
2021.07 gallery hydrangea 企画公募展
『 信じた証 』
(本展の会期は終了し、新しい展覧会が開催されています)
祈る姿、その想いの生きている時間、波動を、そのままに伝えてくれる作品でした。自分自身にとって、祈るとは、信じるとは、自分の手のひらに掬える”信じた証”とはと、重心点を確認させてくれる展覧会でした‥🦋
左「槿花一日(きんかいちじつ)」
— Ryoko (@ryoko167) June 27, 2021
右「Salve regina(サルヴェ レジーナ)」
dessinでの学びと反省点、楮紙との出会いがあって出来た作品。#dessin #美学館 #数奇和 #楮紙#絵描きさんと繋がりたい pic.twitter.com/AD0AEAvi2M
棚田・里山・田園風景:2018年9月中旬 大地の芸術祭@越後妻有/新潟県十日町市にて
(参考1)
「お入らずの森」について
原因と言及されている「気候変動」なる現象の、捉え方には多角的分析が今後求められるかと考えられますが、現況として切に受け止めたい内容でした
(参考2)
人間である自分/我/自己と、他者との境界について
・【第3回】出口康夫教授「⾃⼰とは何か:「われわれとしての⾃⼰」とアフターコロナ」#哲学
↓再生リスト:
オンライン公開講義"立ち止まって、考える"
↓全体観:
【オンライン公開講義】“立ち止まって、考える” | 京都大学 人社未来形発信ユニット
・【第3回京都こころ会議シンポジウム】④講演3「われわれ」としての自己、「われわれ」としての生き方」(出口康夫)
・【第1回京都こころ会議シンポジウム】④講演1「こころの構造と歴史」(中沢新一)
(参考3)
祈りについて
(参考4)
世界の現況へ向けて
『波動の法則』足立育朗 電子書籍版
第八章 病気の本質 p.195~より(≪≫※は筆者)
≪顕在意識が自然の法則にかなう方向に意識変換しよう≫
健康になろうという「意識」、長生きしようという「意識」、これは欲望です。体、ボディを主体だと思っているこのような意識は、「顕在意識」の欲望です。健康になろう、長生きしようという「意識」ではなく、顕在意識が自然の法則にかなった調和のとれた「意識」に変換し、「本質」と同調して、自然界に未来から入ってきた情報を素直に受け止め、それをきちんと実行すれば、自然に中性子、陽子、電子が正常化していきます。ボディが調整されていきます。その結果、病原菌が失くなり、病気は失くなります。(※1)そして、健康になり、長生きしてしまいます。
どんな方法論や行政、あるいは医学よりもまず第一番に、今必要なこと、全てに代わることは、一時も早く「顕在意識」が自然の法則にかなった調和のとれた方向に意識変換をするということです。そういう「決心」をしたら、後は「実行」です。何の修行もいりません。そこから始まって、それが全てです。
≪全ての現象は自分の発散した振動波と同調して起こる≫
(…)つまり、調和のとれた振動波を出していれば、常に調和のとれた現象しか起きません。身の周りに調和のとれたことしか起きなくなります。自分に大変きつい現象が起きているのは、自分にとってスタディが必要でその振動波を出しているからです。「本質」が、スタディしていく顕在意識に「気づいてください」という強烈なメッセージを送っているのです。病原菌もその一つです。
(…)地球上の人はゆがんだ顕在意識で中性子・陽子・電子をゆがめて病原菌を作り出しています。しかし、その病源菌もまたボディにメッセージを送ってくれているのです。エイズとか癌の病原菌(ウイルス)を選択している原子核の集合体(EXA PIECO)があります。癌ウイルスでスタディしているのは、人間とは桁違い周波数の高い原子核の集合体(EXA PIECO)です。(※1)
≪自分より未熟な存在をサポートするようにスタディしよう≫
≪病は「本質」に気づかせるためのメッセージ≫
(…)すると先にも触れましたように、人間の顕在意識が作り出した人間の病原菌は、人間にもう一度「本質」に気づいてもらうためのメッセージを送るためにわざわざ起きていることがわかったのです。そのためにすばらしい原子核の集合体(EXA PIECO)がスタディしていると同時に、サポートするためにメッセージを送っているんだと。ですからそれに気づいた人は病気が急速に治ります。要するに、自然の法則に気づき、「本質」に気づいて意識の変換が起き、その病原菌を通してサポートしてくれている原子核の集合体(EXA PIECO)に感謝をすれば急速に変わるということです。(※1)(※2)“
※1:この部分、読みながら私には、葉室頼昭先生(★医師で、後半生春日大社宮司にもなられた方)の『<神道>のこころ』のエピソード(→もう完全に死の一歩手前で、最期のひと時をご家族と過ごされるために、東京のご実家へと、関西から夜行列車に戸板に寝かせられながら乗っていた時、することが無さ過ぎてある本を読んでいたら、死を前にするあまり無我の境地になっていて、その本の内容に無心で感動して、泣けて来てたまらなくなって、感謝の気持ちだけがただ溢れてきて泣き続けていたら、東京についたら治っていたという…)が思い出され、自然と納得されたのです
“・・・・・・学生時代、当時、不治の病ともいわれた肺結核が、突如「消え失せる」という神秘な体験をした私は、その後、医療の世界に携わりながら、この不思議で驚くべき私の体験がいったいどうして起こったのか、その答えを探究し続けてきましたが、またそれは同時に、本当のこと、人間としてどのように生きていくことが真実の幸せなのかを、求める日々でありました。・・・・・・(本書より/帯裏面より)”
★葉室頼昭『<神道>のこころ/(神道コレクション・日本人の美しい暮らし方)』 春秋社. 2013.9.24. p. 226
※2:見方を替え、"感謝をする"というここの部分、ミソではないかと思うのです。私は従来(今この瞬間も)、要は前近代までの知の活かされている医療の方にこそ人の心身を本当に生かす力があるという立場(=現状のパラダイムのアンバランスさを省みれば、バランス保つ方向へハンドルを切ってこそと志向したい姿勢)で、世界を捉えておるのですが、ここの
“人間の顕在意識が作り出した人間の病原菌の、その原子核の集合体(EXA PIECO)に感謝をする”という姿は、
目下世界を巡る、悪役にされている物質(←視座によってその対象は色々‥何だって、同じなのかもわかりません。夫々が試されていて)にも、言えるのではと気づいたのです
【意識の書き換え】
“人間の顕在意識が作り出した人間の〇〇の、その原子核の集合体(EXA PIECO)に感謝をする”・・・
🐝何とか最後に🦋
🌸和ハーブを学び活用していくことの意義🌿
①先祖代々引き継がれ、また生まれ育ってきた環境における素材の恩恵を受けられる
②文化の根源素材である植物の研究により、先祖からの文化・歴史を知り、継承していく機運になる
③生活圏における自然環境の過去・現在・未来について、認知・把握することができる
④素材のトレイサビリティ(追跡性)やピュアリティ(純粋性)が見えやすいものを手にできる
⑤地域の素材を活かした産業を作り出し、雇用や経済を活性化することができる
⑥素材の遠方輸送における資源の浪費、それによって引き起こされる公害などを防ぐことができる
『和ハーブ にほんのたからもの』p.37より
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